短編小説
□恋の始まりは桃色に染まる
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三日前から舞台の稽古が始まった。
なかなか若いカンパニーで、最年長はオレ。と、もうひとり、坂本留美さんって女の子。
だから三日目にしてオレはすっかりお兄さんポジションになり、坂本さんはお姉さんポジションになっていた。と言っても、お兄さんとお姉さんは、まだ会話をしたことがない。
おはようございますとお疲れ様でした、がこの三日の会話バリエーションだった。
一緒に演るシーンがあれば、ここはこうしようとか話すんだろうけど。二幕までほとんど絡みはなし。
最年長として、コミュニケーションをとったほうがいいってのは分かるんだけど……。オレも台詞覚えたり、初舞台で緊張する後輩の居残り稽古に付き合ったり、些細なことで口論していたやつらの仲裁をしたりで、なかなか……。
が、四日目の休憩中に近付いてきた坂本さんが、急に「しぃちょん」とにこにこしながら言って、ぎょっとした。
「え、え……?」
今までおはようございますとお疲れ様でしたしか言葉を交わしていなかったのに、急に、しかもあだ名で。
「しぃちょん、あのね、親睦会をしようと思うんだけど、今日大丈夫?」
あまりにも普通にそう切り出したので、オレも動揺を隠して「大丈夫」と返した。
ていうか、ええ? オレあだ名教えたっけ? 顔合わせのときあだ名言ったっけ? ていうか前にどこかでお会いしましたっけ?
「良かった。初舞台の子も多いし、みんなまだ緊張してぎこちないから、やっぱり親睦会はしておかないとなって」
考えていることは同じだったけれど、行動力は坂本さんのほうが上だったみたいだ。
「座長じゃないけど、しぃちょんとわたしが男女の最年長だから、引っ張って行かないとなって。カンパニー最年長なんて初体験だから、わたしも頼りないと思うけど」
「いや、そんなこと……。ていうかごめん、そのしぃちょんって……」
会話を続けようと思ったが、我慢できなかった。
坂本さんははっと息を飲んだあと、柔らかく笑う。
その隙に、動揺で額に滲んでいた汗を右手で素早く拭った。
「ごめん、馴れ馴れしかったよね。この間まで大ちゃんや圭吾くんと一緒だったの。それで次の舞台は清水くんとわたしが男女の最年長らしいって話をしたら、しぃちょんは良いやつだからって色々エピソードを教えてくれて」
大ちゃんと圭吾くんがずっとしぃちょんしぃちょん言ってたから、いつの間にか移っちゃった。ということらしい。
坂本さんはそう説明してくれたけれど。エピソードってなんだ。変なこと教えてなきゃいいけど。大ちゃんと圭吾くんのことだから不安だ……。
「嫌だったら清水くんって呼ぶね」
「や、別に嫌ってわけじゃないけど」
「ほんとに? 良かった。じゃあ改めてしぃちょん、これからよろしくお願いします」
差し出された彼女の右手を、数拍置いて握ったら、小さいが温かい手だった。
ああ、まずい。さっき拭った汗が手についたままだ。きっとべとっとしている。きっとじとっとしている。
彼女もそれに気付いたみたいだけど、嫌な顔ひとつしないで「聞いてた通り、しぃちょんって素敵なひとだね」と言って笑った。
心臓を、鷲掴みにされたかと思った。
何か返そうと口を開きかけたところで稽古再開の声がかかって、オレと坂本さんの手が離れる。
フロアの真ん中に移動する間、オレはばっくんばっくんとうるさい心臓を揉んで、どうにか落ち着こうとした。
まさかこんな、初恋の中学生みたいなことになるとは。
ふうと息を吐いたら少し楽になったのに、彼女がオレを見上げて「しぃちょんも、名前で呼んでいいからね」と言うから、今度は心臓が壊れるかと思った。
稽古、本番、千穐楽まで……。こんな調子でもつのだろうか。
とりあえず、ちゃんとオレから話しかけてみよう。
「あのー、その、留美、ちゃん」
「うん?」
「あのー、どうでもいいことなんだけど、発音が、ね」
「発音?」
「しぃちょんじゃなくて、しーちょん……。いや、どうでもいいんだけどね、ほんと……」
「え、ごめん! しーちょんね、しーちょん!」
手を合わせてごめんねと言う彼女を見下ろしたら、ああこれオレ千穐楽までもたねぇわと唐突に理解して、何も言わずに肩を竦めた。
今度は頬が、やけに熱かった。
(了)