短編小説
□君死にたまふこと勿れ
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「鼻水、すごいよ」
今にも消え去りそうに細い、掠れた声で、彼女が言った。
「鼻水なんて出てねぇし」
俺は些細な嘘を吐く。
「あれ、じゃあ、これ、なに?」
ゆっくりと伸びてきた彼女の手が、俺の頬を撫でる。
「ああ、涙か。キョンの鼻水なんて、レアなもの見られたと思ったのに」
彼女は緊迫感のない声でそんなことを言うから、俺は「減らず口たたいてねぇで、行くならさっさと行っちまえ」と強がりを言った。
それでも彼女は特に気にする様子もなく「言われなくてもー」と言って笑う。
いやだ。
「もうすぐだから……」
行かないでくれ。
「げほっ、げほ……」
行かないでくれ。俺を置いて。
「マー……。マーのくせに、俺より先に逝くなんて生意気なんだよ」
逝くな。
「なにさまだ、あんた……」
「うるせぇ……」
「あ、キョン様か……」
頼むから。
「そんなヨン様みたいに……」
「ふふ」
頼むから……。
「キョンを好きになれて、よかったなぁ、わたし」
頼むから……。
「ごめんね、家族になってあげられなくて……」
頼むから。
「いいひと、見つけてね」
マー……。
「さいごに、鼻水見せて」
「……無理」
「あっは」
頼むから、俺を置いて、逝かないでくれ……。
俺は、彼女の身体をへし折ってしまうくらいきつく、きつく抱き締めた。
彼女は俺に身体を預けるよう力を抜いて「ああ、しあわせ」と呟いた。
こんな時にでも笑う緊迫感のない彼女を恨んだ。もっと危機感を出して、泣きながら寂しい離れたくないって言えば、俺だって鼻水くらい見せてあげられたのに……。
(了)