短編小説

□揺れる
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「お父さんの仕事の都合で、小林くんが宮城県に引っ越すことになりました」
 朝のホームルームで、さつき先生が言った。
「ほら、小林くん」
 先生にぽんと背中をたたかれ、小林は「お元気で」とぼそぼそと、小さく唇を動かして言った。教室は一瞬静まり返ったけど、小林からの言葉が終わった途端にあちこちでひそひそ話が聞こえてくる。
「宮城ってどこ?」
「ばーか、ほらあの、マンゴーとかあるとこ」
「へえ、いいなー、マンゴー」
「食べ放題じゃんね」
「ほーら静かにして。マンゴーで有名なのは九州の宮崎県。宮城は東北」
 先生が注意すると、みんなは地理が苦手なクラスメイトたちを指差して笑ったから、一気に教室はにぎやかになった。でもこのホームルームの主役であるはずのやつは、俯いたままくすりともしなかった。


 小林、と言われても、俺はそいつのことを何にも思い出せない。地味で暗くて、たまに話かけてもほとんど喋らなくて。休み時間はいつも本を読んでいるか俯いているかいつの間にかいないかのどれかだった。みんなの話のネタにすらならない、まるで空気のようなやつだった。
 でも小林が転校して行ってすぐ、話のネタになるようになった。内容は「さつき先生と小林はできていて、それがばれたから転校して行った」なんてものだった。
 そんな話は嘘だとすぐ分かる。それよりも、内容はどうあれ初めて小林が話の中心になったのに、本人はもうこの教室にいないという事実のほうが気になった。



 クラス全員分のノートを持って職員室に行った。さつき先生は小テストの採点をしているところで、俺が行くとそれをさっと隠して俺を見上げる。
「ありがとう、寺田くん」
「それこの間の小テストでしょ? 俺どうだった?」
 聞くとさつき先生はふっと笑って「寺田くん自身がよーく分かってるでしょ」なんて言う。
「満点?」
「開始三分で寝始めたひとが、どうだったなんて聞かないの」
「だって簡単だったもん、あれ」
「簡単ねえ。次はもう少し難しく作ろうかな」
 悪戯っぽく言って、さつき先生は俺を見上げる。
「ねえ、寺田くん。いま暇?」
「え?」
「暇そうだね」
 暇、ではない。今はさつき先生を見るのに忙しい。
「身体動かしたくない?」
「身体?」
「そう。先生と一緒に身体動かそうよ」
 健全な男子高校生相手にこんな言い方。誘っているのか、からかっているのか。それとも天然なのか。
 正解なんてどうでもいいくらい、俺は、さつき先生が好きだった。





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