短編小説

□静かに消えゆく恋心
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 好きな人がいる。
 わたしが勤めている楽器屋の店長で、年は四つ上。無口で無表情で何を考えているのかよく分からないような人だけど、仕事は早いしフォローも上手いし頼りになる人だ。仕事以外の会話はほとんどしたことがなかったけれど、ある日の休憩中、そんなに広くない休憩室でアコースティックギターを弾いているのを見て、上手ですね、と声をかけた。店長――吉野さんはちらっとわたしを見上げ、昔バンドやってた、とだけ答えてくれた。優しい声だった。優しい音色でもあった。無口で無表情のこの人が、こんなに優しい声を出すなんて。こんなに優しい音色を奏でるなんで。
 気付けば恋に落ちていた。

 吉野さんは絶対に彼女はいないと思う。休憩中も仕事終わりもケータイなんていじらないし、希望休もとっていないみたいだし、カレンダーを気にする様子もない。それでももし彼女がいるのだとすれば、相当な放任主義者だろう。そしてこの無口と無表情をものともしない女なんて。相当な鈍感女かしっかり者か。
 総合すると彼女はいないという結論で妥当だと思う。千円賭けてもいい。お財布の中でずっと眠っている二千円札を賭けてもいい。
 そう、思っていたのに……。

 休憩中、副店長の高橋さんがげらげら笑いながら、遅番の平田さんがぷりぷり怒りながらやってきた。何があったのか聞いてみると、指で涙を拭いながら高橋さんが教えてくれた。
「さっき吉野さんに、恋人の誕生日を知ってるかって聞かれて、そりゃあ知ってますよって言ったのね。プレゼントとか食事とか考えないといけないからさ。そしたら吉野さんきょとんとしてて。なんと吉野さん、彼女の誕生日知らないんだってさ。昨日までフルネームも知らなかったらしいよ」
「え……?」
「その話を平田にしたら、出勤早々吉野さんに抗議に行ってさ。吉野さん硬直してたよ」
「だって彼女が可哀想じゃない! 誕生日も祝わないんだからどうせクリスマスも何もなかったんでしょ? バレンタインにチョコもらっても絶対お返ししないもん! そういうの気にしない彼女だったとしても、やっぱり二人でイベントを過ごしたら嬉しいはずだもん! そういうのってなかなか切り出しづらいんだから、吉野さんがしっかり聞き出さないと!」
 平田さんの演説は止まらないし、高橋さんはそれを聞いてずっと笑っていたけれど、わたしの耳にはもう聞こえていなかった。
 吉野さんに、彼女がいる? 絶対にいないと思っていたのに。それが妥当だったはずなのに。二千円札も賭けたのに。いや、でもそれは本当の話なのだろうか。恋人の誕生日を知っているかどうか、一般的な意見を聞いただけじゃないのか? だって吉野さん世事に疎そうだし。何を考えているのか分からない系男子なんだから、こういうことを急に思いついたとしても不思議ではない。


 どうしても吉野さんと話がしたくて、退勤してもスタッフルームに残っていた。一時間ほど経ってスタッフルームにやってきた吉野さんは、やたら疲れた顔をしていた。聞くとどうやら今日出勤のスタッフ全員に質問の件を追及されたらしい。
「それは大変でしたね」
 苦笑しながら言うと、吉野さんはロッカーから取り出したコートを羽織りながらうーんと唸る。
「まあこれで恋人の誕生日くらい知っておくもんだって分かったから」
 ああ、やっぱり思いつきで一般的な意見を聞いただけか、と安心したのも束の間。帰り支度を終えた吉野さんが、もうずっとスタッフルームの隅に置いてあったギターケースを持ち上げたからどきっとした。
「ギター、持って帰るんですか?」
「うん、聴かせてやろうと思って」
 誰に、とわざわざ聞かなくても、次の言葉は想像ができる。わたしが望んでいない言葉だ。
「彼女に」
 失恋確定。この数時間、動揺しては落ち着かせるという行為を繰り返してきたけれど、ついに出た結論に、思考が追い付かない。気付けば畳みかけるようにこんなことを言っていた。
「でも誕生日もフルネームも知らなかったんですよね。それって付き合ってるって言えるんですかね。それについて何も言わなかった彼女さんもどうかと思いますよ。普通付き合い始めたらまずそういう話をしますよね。それを知らないまま過ごすって。どんな付き合い方をしてるんですか。本当にお二人が愛し合っているのかわたしは疑問です」
 吉野さんは無言だった。ギターケースを持ったまま無表情でわたしを見て、そしてこてんと首を傾げる。
「誕生日やフルネームを知らなくても、他のことは知ってる」
「え……?」
「あいつの好きな食べ物とか得意料理とか、好きな映画とか小説とか、どこを触れば悦ぶとか寝顔とか。なんなら背中にあるほくろの位置は本人より知ってる」
「あ……」
「伊藤さんの言い分は、悪いけどよく分からない。誕生日やフルネームを知っていることが、そんなに偉いの?」
 返す言葉が見つからない。身体も、指先さえも動かない。お尻は椅子に、指先は太ももに貼りついてしまったみたいだ。
「好きだから一緒にいる。それだけだよ。じゃあお先に」
 吉野さんがスタッフルームを後にしても、わたしは固まったまま、さっきまで彼が立っていた場所を見つめていた。
 こんなに長い時間ふたりきりで会話するのは初めてのことなのに、ちっとも嬉しくない。むしろ、話さなければ良かったと後悔した。無口な吉野さんがこんなに喋るのもレアなのに、他のスタッフに自慢もできない。
 今のわたしにできることは、静まり返ったスタッフルームで、声を押し殺して泣くことだけだった。



 それから数日。あんなことを言ってしまったのに、吉野さんは驚くほど普通だった。気まずい思いをしているのはわたしだけ。
 レジカウンターの中から吉野さんを見つめ息を吐くと、どうした? と高橋さんが声をかけてきた。相談するかどうか迷ったけれど、彼女の誕生日の件でひどいことを言ってしまった、と白状した。高橋さんは柔らかい表情で笑って、ぽんぽんとわたしの肩をたたく。
「彼女と仲直りしたみたいだよ」
「え?」
「いや、そもそも喧嘩してたわけじゃないみたいだけど。今度数ヶ月遅れの誕生祝いするって」
「聞いたんですか?」
「まあみんなに言い触らしたの俺だから。後日談を言い触らすのも俺の役目かなって」
「そうですか……」
 ほっとした反面、顔も名前も知らない吉野さんの彼女が羨ましくて、妬ましくて、悔しくて堪らなかった。誕生日やフルネームを知らなくても、きっと彼女はすごく愛されている。彼女しか知らない吉野さんの素顔を毎日独占している。わたしだって毎日顔を合わせているのに、知っているのはフルネームと年齢とギターが上手いってことだけ。
 散々妬んだあとは、情けなくなった。吉野さんが言ったことは正しい。誕生日やフルネームを知っていたからって何になるんだ。偉くも何ともない。それよりも、好きな食べ物や好きな映画を知っていることのほうが大きいじゃないか。人は誕生日や名前と付き合うわけじゃない。その人の日常と付き合っているのだから。


 その日の夜、急に恋愛映画が観たくなって、レンタルビデオ屋に向かった。これでもかってくらいのハッピーエンドがいい。せめて二時間だけでも幸せな気分になりたい。
 タイトルを順番に見て回り、棚から数本手に取ると、柊さん、という声が聞こえてはっとした。顔を上げると、通路の先に見慣れた男性と見知らぬ女性がいた。吉野さんと、きっとあれが吉野さんの彼女だろう。
「ありましたよ、なぜかコメディーのところに」
「でかした」
「もう、柊さんが観たいって言ったのに全然探さないから、端から順に棚回ったんですよ」
「探し物は桐のほうが得意だろ」
「探す素振りくらいしてください」
「代わりにおまえが観たいって言ってたマイナー映画探しといた」
「やった、でかした柊さん」
「顔上げたら偶然目の前にあった」
「それ探したうちに入ります?」
「入るだろ」
「微妙ですよ」
「微妙か」
「労力の分、わたしの映画が先ですからね」
「分かった分かった」
 言いながら吉野さんは優しい顔で笑って彼女を見下ろしたから、どきっとした。
 あれが、彼女しか知らない吉野さんの素顔。無口で無表情の吉野さんが、彼女の前ではあんなに喋って、あんなに優しい顔で笑うなんて。敵わないな、本当に……。
 もう映画を観る気分ではなくなってしまって、持っていたDVDを棚に戻し、ふたりにばれないよう、静かに店を出た。
 家に帰る前、近所のコンビニに寄って、普段は絶対に飲まないビールを買った。おつりと、もう何年もお財布の中で眠っていた二千円札をレジ横の募金箱に入れると、少しだけ心が軽くなったような気がした。



(了)




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