短編小説

□初恋は色鮮やかに輝く
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 ソファーで仰向けに寝転んで、左の手のひらをかざす。
 母指球にうっすらと見える黒い点。これは十五年前、わたしが確かに初恋をしたという証。これを見ると、いつでも初恋を思い出すことができる。
 元々は大嫌いなクラスメイト。髪を引っ張られたり教科書に落書きをされたり名前を馬鹿にされたり……。些細な嫌がらせだったけれど、それでも嫌いになるには充分だった。同じクラスになってたった数ヶ月で、もう顔も見たくないくらい、修復不可能なくらい最悪の関係になったのに。ある日、事件が起こった。
 その日は買ってもらったばかりの筆箱を持って行っていた。友だちはみんな羨ましがって、わたしも気分が良くなっていたというのに。いつものようにあいつがやってきて、いつものように馬鹿にしたのだ。いつもは聞き流せるのに、その日ばかりはやたらと腹が立って、やつの頬に平手打ちをした。そしたらやつも激怒して大乱闘。突き飛ばされた拍子に筆箱が落ち、散らばった鉛筆の上に倒れたら、左手に激痛が走った。削ったばかりの鉛筆の芯が突き刺さっていた。
 騒然とする教室で、痛みに耐えながらやつを見上げた瞬間、はっとした。いつも嫌味っぽい笑みを浮かべていたのに、今は違う。悲しそうな、苦しそうな、切なそうな、変な顔をしていた。不思議なくらい目が離せなくなって、ああこんな顔もできるんだ、と思ったら、急にやつを好きになった。痛い思いをした結果初めての恋をするなんて。当時のわたしはマゾヒストだったのかもしれない。


「また手のひら見てんのか」
 掲げた左手越しに、呆れた表情の男が見えて、ふっと笑う。
「いいじゃない。大事な初恋なんだからたまには思い出したって」
「俺が嫌なんだよ」
「別に槙村の迷惑にならないでしょ」
「ちょっと目ぇ離すと左手見て十五年も前のこと考えてるなんて。今の恋人に失礼だと思わんのかおまえは」
「はいはい。十五年も前のことを思い出していても、わたしは槙村一筋だから心配しなくていいよー」
「棒読みやめろ、ハラマキ女」
「ちょっと、ハラマキって言うのやめてよ。原真希、はら、まき。恋人の名前を馬鹿にして、失礼だと思わんのかきみは」
 手のひらに鉛筆の芯は残っていない。それでも十五年経った今でもそこは色が残っている。これがある限りわたしはあの初恋を忘れないし、むしろ十五年も思い出し続けていたらきっともう一生忘れないだろう。
 槙村は嫌そうな顔でため息をついて、掲げたままだったわたしの左手を乱暴に掴む。何事かと思ったら、ポケットからおもむろに何かを取り出し、それを無理矢理左手薬指に押し付けた。確認するまでもなく、指輪だった。
「もう初恋なんて忘れて、結婚するぞ」
 ムードの欠片もないプロポーズだった。槙村らしいと言えばらしいし、この人がもし仙台の街を見渡せるレストランでプロポーズしようものなら、わたしがムードをぶち壊して爆笑してしまうだろう。
 でもさすがの槙村も照れているのか、頬を赤く染めて口を尖らせている。普段は涼しい顔で余裕ぶって、やたらと暴言を吐いてくるくせに。この人のレアな表情をずっと見ていられるわたしは、すごく幸せなのかもしれない。
 いつの間に用意したのか、薬指にぴったりはまった指輪に目をやり、ふっと息を吐いた。
「槙村」
「なんだよ」
「婿養子になってよ」
「はあ? なんで」
「だって槙村と結婚したら、槙村真希になっちゃうもん。名前がマキマキしちゃう」
「間に村が入ってるんだからいいだろうが」
「でもあんたが長年言い続けたハラマキネタ、使えなくなっちゃうよ?」
「いいよ別に。好きで言ってたわけじゃねえし」
「好きで言ってたんでしょ、わたしのことが」
「うるせえマゾ女」
「いじめっこめ」
 腕を伸ばして槙村の首に回すと、やつは覆いかぶさるようにわたしを抱き締め「あのときはごめん」と呟いた。改めて謝らなくても、気にしていないのに。むしろ気にしていたのなら付き合っていない。そんなにマゾじゃない。
「わたしも、平手打ちしてごめんね」
「超痛かった」
「自業自得っていうんだよ」
 槙村の背中をぽんぽん撫でながら、もう一度手のひらを見た。
 ますます忘れられないな。これのお陰で、大好きな相手と結婚することができるのだから。


 いつも通りソファーで仰向けに寝転んで左の手のひらを眺めていたら「いい加減忘れろっつったべ」と槙村が嫌そうな顔をした。そんなに嫌がらなくてもいいのに。やつにとっては思い出したくない出来事なのだろう。申し訳ないけれど、十五年間続けた習慣はもはや日常と化し、簡単にやめることなんてできそうにない。
 だからわたしは。
「指輪を見ていただけだよ」
 そんな嘘をついて、真新しい指輪に口付けた。





(了)




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