短編小説

□ココアは甘い
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 夜、連絡もしないで彼女の部屋を訪ねたら、彼女は特に驚くこともなく「コーヒーでいい?」と僕を招き入れた。
 クッションを抱きながらソファーに深く沈んで待っていると、甘い香りがしてくる。すんすんと鼻を鳴らしながら見上げると、マグカップをふたつ持った彼女がいた。でもどう考えても漂ってくるのはコーヒーの香りではない。マシュマロまで浮かんでいる。どう考えてもこれはココアだった。
「コーヒーでいいって聞いた意味ないじゃん」
 言うと彼女はマグカップをテーブルに置きながら腰をおろし「コーヒー切れてたの」と言い訳をする。
「お詫びにしっかり練っといたから美味しいと思うよ」
「何、練るって」
「パウダーを練ると美味しくなるんだって」
「ふうん」
 ふうふう吹いてから一口飲んでみるが、普段ココアを飲まない僕からしたら、これが美味しいのかどうかよく分からない。とにかく甘いという感想しか出てこない。
 彼女はというと、顔を綻ばせて美味しそうに飲んでいる。もうそれだけで充分な気がした。
「どう、美味しい?」
「うん、まあ」
 僕の曖昧な返事にも、彼女は表情を曇らせることもなく、両手で持ったマグカップを何度も口に運んだ。僕も真似して口に運ぶと、なんだか肩の力が抜けた。今日は失敗続きで自然と強張っていた身体が、ほぐれていくような気がした。
 もしかして彼女は、僕の強張った身体に気付いたのかもしれない。だからコーヒーではなくココアを淹れてくれたのかもしれない。なんて。余計なことを考えるのはやめて、甘い香りを深く吸い込んだ。
 においも味も、とにかく甘かった。




(了)





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