短編小説

□ハードル
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 お腹が空いているからいっぱい食べられると思っていたんだけど、やっぱり食べられなくてほとんど残す。
 恋愛もそう。いっぱい好きだからうまくいくと思っていたんだけど、好きが大きすぎて手におえなくなって行き詰って別れる。
 繰り返すのは、わたしが馬鹿だからか。
 いっぱい求めて何が悪いんだろう。多けりゃ多いに、大きければ大きいにこしたことはない。目標は高く持てって、小学生の時に先生が言っていた。
 ハードルを下げた簡単な目標なら、心も身体も余っちゃうじゃないか。そんな満たされない生活、つまらないじゃないか。いつかは10メートルのハードルも跳び越えられるって、信じたいじゃないか。

「おまえって時々変なこと言うよな」
 わたしのベッドの上で漫画を開きながらリョウが言った。シャワーのあと髪をちゃんと拭かないから、さっきからぽたぽたとしずくが落ちている。
「わたしの発言云々より髪拭いてよ。ベッドと漫画が濡れる」
「タオル見当たらねえんだもん」
「洗面所にあったでしょ。あんたの目は節穴か。節か」
 笑いながらのろのろと洗面所に戻るリョウの背中を見送りながら、深い息を吐いた。
 終電を逃したからとヤツが深夜に訪ねて来るのも、今月に入って三回目。今年に入ってからはもう十回を超えた。

「ねえ、彼女はさあ」
 洗面所に向かって言うと、奥から、んーなにー? と間延びした声。続いてリョウがバスタオルをかぶって顔を出す。
「ちょっと、それ違う、バスタオルじゃん」
「で、なんだって?」
「彼女、うちに泊まるってこと知ってるの?」
 ベッドに戻るバスタオル男は、あっけらかんとして頷いた。ああ、知っているんだ。当たり前じゃん、という顔をしながら言うくらい、彼女に話しているんだ。彼女は気にならないのだろうか。恋人がどこぞの女とひとつ屋根の下で夜を過ごすことを。
「だっておまえじゃん」
「なにが」
「間違いなんて起きるわけないし」
 そんなにはっきり言わなくてもいいじゃないか。わたしは女で、リョウは男なんだから。しかも寝やすさ重視で露出の高い部屋着を着ているわけだし、欲情しないとは限らないじゃないか。

「リョウはさあ」
「おまえの部屋さあ」
 なんだよ。今わたしが話そうとしていたのに。遮るなよ。
 むすっとしてバスタオル男に目をやると、彼はぼんやりと部屋を見回してこう続ける。
「いつ来ても生活感ないよなあ」
 果たしてそれは、わたしの言葉を遮ってまで言うことだったのだろうか。
「悪かったね、可愛い小物とか花柄のカーテンとかなくて」
「一応褒めたんだけど」
 そうは思えない。
「いいじゃん、居心地いいよ。片付いてて。飯もうまいし、タオルもいいにおいだし」
「はいはい、お世辞言ってもベッドはわたしのものだからね」
 ベッドはわたしのものだけど、クッションをタオルケットは貸し出そうと、それらを床に投げ置いた。
「綺麗好きで料理上手なのに、なんでおまえ彼氏と長続きしないの?」
 ばくん、と。心臓が鳴った。
 なんで彼氏と長続きしないかなんて、理由はひとつしかない。
 自嘲気味に笑って、リョウの寝床を完成させたのち、彼を見上げる。
「じゃあリョウがわたしの彼氏になれば?」
 言うと、彼はきょとんとしてわたしを見たあと、あははと笑った。
「今の彼女と別れたら、考えてやってもいいかな」
 そんなこと。別れる気がないから言えるんだ。わたしのことなんて鼻から眼中にない。一緒に居過ぎて眼中に入らないなんて。笑えない笑い話だ。

「ああ、どこかに良い男転がってないかなあ」
「あはは。転がってたら誰も苦労しねえよ」
 好きだ。リョウが好きだ。彼氏ができてもリョウのことばかり想ってすぐに別れてしまうくらい、好きだ。
 怒った顔も、笑った顔も、泣いている顔も、困った顔も、寝顔も。あははという嘘っぽい笑い声も。朝無精髭を生やして、いつもより低い声でおはようを言うのも。わたしが作った料理をおいしそうに食べている姿も。会社帰りのスーツ姿も。わたしの部屋に置きっぱなしになっている襟首だるんだるんのTシャツ姿も。一緒にテレビを見ていて同じタイミングで笑った時に振り向いた間抜け面も。お酒を飲むと泣き上戸になって愚痴を言うところも。
 全部、全部、大好きだ。

「絶対良い男捕まえてやる」
「まあ精々がんばれよ」
「見てろよ、馬鹿リョウ」


 障害は大きければ大きいほどいい。例えば、好きな男には彼女がいて、奪い取るのは困難だ、とか。
 でもその障害は予想よりもずっと大きくて、わたしはもう何年も、満たされない生活を送っているのだけれど。
 どうしてこんなことになってしまったのか。どこで道を間違えたのか。
 今のわたしではそのハードルは高すぎて、越えることも、むしろハードルを見つけることすらできないのだ。






(了)





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