Ora cure 〜黒薔薇の塔の姫君〜




はらはらと舞い降りて足元を埋め尽くす雪。
吸い込まれるようにあとからあとから降り立っては、周りの音さえ呑み込んでいく冬の魔物。脳裏に木霊する、親しい人々の小さな囁き。
――「黒姫」と呼ぶ、その恐れを含んだ声音や視線。
ただ一人、塔に閉じこもってもそれは呪縛のように絡み、徐々に精神を蝕んでいく。
「これが本当の罰だったのだ」と、逃げるように耳を塞いだ。
その時、頬を滑るものがあった。さらっと流れて地面に落ちていくもの。
真っ白い雪の上に落ちた、黒い髪の束。
それを見た瞬間、ぞわぞわと腕を這い上る何かを感じ、カタカタと体が震える。

『綺麗な髪だ。輝いていて、触りたくなる』

彼の愛してくれた髪。大事な大事な思い出のある髪。
必死に手を伸ばして雪ごと髪を拾う。けれどそれが元に戻るわけもなく、寒さではなく恐怖から手が震えた。
これで終わりだ。
他人への感染はない。けれどその経路も治療法もない病――「黒病」は私の身体を蝕んでいる。
自慢の銀髪は真っ黒に、白い肌にも黒い斑点が見え始めた。
髪色が変わり病名がわかってから、逃げるように使われていた塔に一人閉じこもった。
時折ブラーヴォやマリアンが尋ねてきてくれるけれど、二人の姿を見ると卑屈になる自分がいた。
本当はこんな姿を笑っているんじゃないの、と感じる時もある。
二人の幸せを心から願うと約束したのに……。
いつの間にか雪の上に座り込んでいて、気付いたら足が冷たくて痛かった。
暖かいと渡された茶色い生地でピンクの格子柄の服が、ポタポタと落ちる雫を吸い込んでいく。あとからあとから溢れ出て、口元を覆って声を押し殺した。
誰も聞いていないというのに、なぜ隠そうとするのか自分でもわからなかった。

「何、してる……!」
「え……」
「こんなところにいたら風邪ひくだろう!? 病人は動くな」

私の腕を突然引っ張り立ちあがらせたのは、見たことがない人だった。
フードの下からのぞく顔が驚愕から怒りに変わり、それでも優しい手つきで抱えられた。

「え、えっと……私歩けます」

膝裏と背中に当たる腕、左に感じる体温が熱く感じる。さっきまで雪に触れていたせい?
恥ずかしくて涙も引っ込み、落ちない程度に抵抗した。

「下ろしてください」
「病人は黙って」

即答で返された上に、さっきから病人病人と呼ぶ。

「私はニゲルです。病人呼ばわりは失礼です」
「病人には変わりない」
「私のことを知っているということは、あなたはブラーヴォかマリアンのお知り合いの方ですか

街の人は近づかない。不気味な噂の漂うこの塔の辺りは、逃げ込むには最適な場所。そこを訪れるということは、きっと二人の紹介か、話を聞いたのだろう。

「二人は来れないから、代わりに俺が食料を届けに来た」

一応その言葉に頷くものの、心当たりのないこの人物を完璧に信用することはできない。
そんな思いがつい言葉になってしまった。

「あなたは一体何者なんですか」

その時、ほんとに一瞬空気が止まったように思う。けれど彼は薄い唇を開いて告げる。

「俺の名前はマオ。旅の途中でこの街に寄った。今は二人の家で世話になっている。今日はその恩を返す為に手伝いにきた」

緑の髪がさらりとこぼれ、ふっと表情を和らげた彼から視線を外せなくなってしまう。
その日から、私のもとを訪れるのはマオになった。



彼は変わっていた。
黒病の私を見ても何も言わないし、平気で触れてきて旅の話を聞かせてくれた。
そして帰り際にマオは私を引き寄せておまじないをしてくれる。そうすると自然と心が落ち着いて、体の中が温かくなった。気のせいかもしれないけれど、体調も良くなっているように感じる。
今日はマオの来る日。
いつしかそうして楽しみとなった彼の訪れに胸を高鳴らせていると、パサっと何かが落ちる音がした。
油断していた私は振り返って、床を見て、言葉を失った。
気付いた時手にしていた鋏で髪を切った。ザクザクと音を立て、首辺りから切り落としていく。
そうしてあらかた切り終えて鋏を仕舞おうと伸ばした腕を見て、今日は肌寒いから長袖にワンピースを合わせようと着替える。
鏡を見て一回りすると、扉をノックする音が聞こえた。返事より早く入って来たマオは、私を見て微笑んだ後部屋の惨状を見て顔を引き攣らせた。

「ど・う・い・う・ことかな、お姫様」
「窓を開けてたから切った髪が飛んじゃったの。片付けようとしたらマオが来たの」

ちょうど窓際にいたし何も不審がられないと思った。マオは溜息をついて片づけを手伝ってくれる。
そして終わればティータイムの用意をし、いつものように向かい合わせで座った。
お茶を一口啜り「美味しい」と呟けば、彼も頷いて肯定してくれる。そっとカップを置いたら、マオがそっと口を開いた。

「冷えてきた」
「うん。寒かったから私も着替えたの」
「明日はもっと冷えるって」

よくある話の切り口にほっとして息を吐く。長袖にしたのに心なしか寒く感じてそっと腕を擦る。するとマオがいきなり立ち上がり、私の体を包むように上着をかけた。ふわっと香る爽やかな匂いは彼のもので、引き寄せながら顔が熱くなるのを感じた。
それに気付いているのかいないのか、マオは私の髪に触れ、さらりと指で梳いた。

「いきなり髪切るなんて、何かあった?」

背筋に冷たいものが走る。マオは私の髪が抜けるのを知っているから、きっと気付いたんだと思う。でもそれは絶対知られたくない。知っているのに気付かれたくない、進行しているなんて気付かれたくない。そんな思いを隠すように無理矢理微笑んで、彼を見上げた。

「ずっと長かったから飽きてきちゃったの。さっぱりしたでしょ?」
「これから寒くなるのに?」
「……うん。もうちょっと考えればよかったなぁって切ってから気付いたの」

ほんの少し遅れた返答に冷や汗が流れる思いだったけれど、とくに何も言われず彼は私のカップにお茶を注ぎ足す。赤茶色の液体が満たしたカップの中で、ゆらゆらと揺れる自分の姿はどこか頼りない。

「ニゲル。もし治療法があるなら、どんなリスクがあるかわからないものでも、もしかしたら治らないかもしれなくても、試してみたいと思う?」
「……いきなりどうしたの?」

カップに手を添え温まった指が、自然と彼の言葉に反応した。おかしなことを言うと笑いたかったのに、視界が滲んで顔を上げることができなかった。
水面に映る自分が唇を噛みしめこらえている。「もしも」の話なんて聞きたくない。

「もし君が望むなら……」
「マオ、もういいの。これが私の運命(さだめ)なのだから、あなたが気にする必要はないわ。ただひとつ願うなら、こうしてあなたと話せればいいと思うの」

最後までとは言えない。最期を見られたくはないから。

「あなたと出会うまで、ただ後ろばかり見て暗いことしか考えられなかった。羨んだり卑屈になることしかできなかったけれど、こうして笑えるようになったのはあなたのおかげ。マオが色々話しかけてくれたからよ。『黒姫』と嫌煙される私に、あなたは光をくれたの」

自らの作りだした暗闇から抜けだせなかった。手を差し伸べ救い上げてくれた彼は私の救世主。そっと見上げたその先で、笑みを浮かべようとしたのにそのまま凍りついた。
鬼気迫るような空気、そして睨みつけるように強い瞳でマオが見つめていた。

「君はそれで十分だというわけ? 本当にそう思ってるとは思えない」

吐き捨てるような台詞は冷たく心に突き刺さる。彼に嫌われたのだろうかと、胸の辺りからじわりと広がる寒々しさに、次第に体が震えそうになった。彼の上着で寒気はなくなったはずなのに。

「君は君が満足すればそれでいいと思ってる」
「ちがうわ!」
「それならどうして夢を見ない? もっと生きたいと願わない? なぜ身を引こうとする!?」
「治らないからに決まってるわ! 治らないのにこれ以上期待して……どうするの」

ぽたり、と我慢していた涙が零れた。一度流れるとあとからあとから止まることなく流れ落ち、俯いた私をそっと温もりが包み込む。

「……ごめん。泣かせるつもりじゃ、なかった。ただ君が諦めようとするから……つい、ムキになった」

心配してくれている彼の気持ちは知っている。じわりじわりと広がる彼の温度からもそれは伝わる。

「君を心配している人がいるってことを忘れないでほしい。君が生きることを諦めるということは、言葉は悪いけど、その思いを踏みにじるっていう意味だ」

さらにきつく抱きしめられ、恥ずかしさと申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
体を離して私の涙を拭った彼は、「さっきの続きだけど」と前置きをする。

「可能性があれば、治療を受けてみる気はある?」
「……治療法があるということ?」

恐る恐る尋ねる私に、彼は微笑んだ。そして腰に佩いたカットラスに手を伸ばし、さっと出ししまう。何をしているのかよくわからない一瞬のできごとだったけれど、目の前に突き出された彼の手の平を見て驚愕した。

「血がっ……なんでこんなこと!」
「見てて」

私を片手で制してマオは目を閉じた。するとふわっと微風が吹き彼の緑の髪をなびかせた。
そして傷を負った方の手が淡く光り、みるみるうちに流れた血も傷も、跡形もなく消えていった。
目の前で起きたできごとに釘付けで、処理の追いつかないまま呆然としていた私にマオが話しかける。

「俺には治癒の力がある。どんな傷も病も治せる不可思議な力だ。この力を巡って争いが起き、俺は力を封じた。使わないために故郷から逃げてきたんだ」

初めて聞かされる彼の過去。彼のことを知りたいと思っていたのに、嬉しいわけでもなく複雑な思いが入り混じっている。
もっと聞きたいけれど、今はその時じゃない。今その封じた力を私の前で見せたということは、きっとその力で私を救おうとしているのかもしれない。

「その力で治そうとしてくれたの?」

今思えば、彼がいつも別れ際にするおまじないの後調子が良かったのは、私に見られないようこの力を使っていたのかもしれない。でもその力を使っても治る気配はないのに、どうしようというのだろう?

「やっぱり気付いてたんだ? でもあれは少しだけ力を流し込んでた。少しずつ量を増やしながら、様子を見てたんだ。全力で使えば治る可能性も高くなる。リスクがあるかもしれないけど」
「つまり、それしか方法がなかったということなのね」

躊躇うよう最期の言葉を口にした彼の様子からなんとなくわかった。それに彼がこの病の治療法を必死に探してくれていることも、訪れる時の表情でわかる。
彼と出会ってからそろそろ一年が経とうとしていた。

「治療が終わったら、君に話したいことがある」

立ちあがっていた私が彼を見上げると、頬に手を添えられた。強い意志を秘めた瞳に見つめられ、するりと言葉が流れる。

「私も、あなたに伝えたいことがあるの」

彼が話したいと言った内容が気になるけれど、きっと私の為に今は言わないのだろう。期待させすぎず、未来を約束する形で。
あなたに伝えたいこの想いを、私が口にしなかったように。
そっと瞼を閉じた私の頭の上で、彼が何か呟く。いつものおまじないと、繋がれたお互いの手をさらにぎゅっと握りしめた。




「だからここ、いつも掛け違えてるって言ってるでしょ! 何度言ったらわかるのかしら」
「君が直してくれるから問題ないよ。それに、その間こうして君を近くに感じられるんだから」
「ばか」
「静かにしてくれよ! 病人がいるっていうのに配慮の欠片もないのか」
「騒がしい方が起きてくれるかもしれないよ」
「病人がいる部屋では静かにしているのが普通なの。マオ、文句ならブラーヴォに言ってね」
「どっちもどっちだろ……」

呆れたような物言いが聞こえた。
聞こえるということがなんなのか、よくわからないままでいると突然額が熱くなる。そして赤い視界に驚いてすっと瞼が持ち上がった。

「ニゲル……?」

穏やかで優しい声が耳朶を打つ。じんわりと染み込むそれで、私は「ニゲル」という名前であることを思い出し、彼が誰であるのかもわかった。
名前を呼ぼうとしたけれど口が思うように開かず、歪んでいた視界がはっきりと映し出された。
整った顔立ちに緑の髪。心配そうに覗きこむ彼が、私と目が合うと破顔した。

「ニゲル! 俺がわかるか?」

喉が張り付いて声にできなくて、頑張って笑みを浮かべながら腕を上げる。それに気付いたマオが手を取ってくれて、甲に口付けた。それに驚き声を出そうとして咳きこんでしまう。

「ブラーヴォ、お水!」
「ぬかりないよ」
「ばか! それはタオルを浸してた水よ! もう!」

マオに起こしてもらいながら私は笑いと咳を交互に繰り返す。
それを心配そうに見つめ、背中を擦ってくれるマオ。
何もできずおろおろするブラーヴォ。
ブラーヴォを押し退けて水の入ったコップを持ってきてくれたマリアンの目には涙が溜まっている。
それを受け取り水を流し込みながら、私は幸せだと心から思えた。

「ニゲル」

私からコップを受け取りマオが囁く。

「君の病は完治したよ。信じてくれてありがとう」

お礼を言うのは私の方。それさえ口にできずただマオにしがみつく。宥めるように頭を撫でられる心地良さに、私はまだ生きていると実感できた。
袖からのぞく腕に斑点はない。マオから離れ横髪を梳くと、それはもとの銀色に輝いていた。

「本当に……」
「本当に。どこか痛むところはある?」
「ないわ」

ふるふると首を振ると安心したようにマオは微笑んだ。

「俺の力は消えた」
「え?」
「治癒の力は、もうない。俺はただのマオ・アヴランチェになった」

どこかを見据えて彼は言う。それは遠い視線で、愁いでもなくなんと声をかければいいのかわからない。

「……ごめんなさい。私を治したから……」
「ちがう、ちがうんだニゲル。俺はこれで故郷に帰れる。いや、帰ろうと思う。君のおかげだ」

マオが故郷に帰る?
力のせいで故郷を戦禍に巻き込み、逃げたという彼。力がなくなったからもう争いの原因はないから、帰ろうというの?
ゆらゆら揺れ始めた視界を隠すように俯いた。彼は帰れることを喜んでいるのだから、笑って送らなければいけない。必死に涙を堪えていると、胸元に引き寄せていた左手を取られた。
その先を追うと指に装飾具をつけられる。輪っか状で複雑な彫り込みがしてあるそれを私の指に通すと、彼は真剣な眼差しで私を見た。

「共に俺の故郷に来てほしい。それが、俺が話したかったことだ」

私がマオと一緒に彼の故郷へ?
いくらなんでもさすがにわかった。でも信じられなくてただ彼をじっと見ていると、困ったように頬を掻いて彼は再び私を見る。

「ニゲル、君を俺の家族に紹介したいんだ。この意味わかる?」

心なしか彼の頬が赤い。やっと本当なのだと気付いて私の顔も熱くなる。きっと真赤に染まっている。
飛び出てしまうのではと思うほどの鼓動、震える唇。
ゆっくり深呼吸をして落ち着かせ、彼に握られていない方の手に力を込める。

「マオが好き。だから……よろしくお願いします」

うまく、笑えたと思う。目を見開いた彼が、次いで柔らかい笑みを浮かべる。

「こちらこそ、私のお姫様(ウィ・ステリィ)」

騎士のように畏まる彼と笑い合う。
窓の外はとびっきりの青い空で、どこまでも果てしなく続いている。
閉ざされていた世界が開けたような眩しい光を彼と共に眺めながら、私は今までを振り返った。
きっと私は彼と出会う為に、ここまできたのだろう。
未だ繋がれたままの手から伝わる温もりが、もう一人でないことを教えてくれる。
これからは前を見ていこう。
彼と共に彼を支え、生きていこう。
運命の行きつく先は、きっともっとずっと向こうだから。




*************


昔々、あるところに黒薔薇の塔と呼ばれる場所がありました。
そこに住むのは闇のように真っ黒なお姫様。
「黒姫」と呼ばれ人々から恐れられていたお姫様のもとへ、ある日一人の王子様がやってきます。
幸せを運ぶ緑の風と共に現れた王子様は、心優しい黒姫に一目惚れし生涯を誓いました。
すると不思議なことに黒姫の体から真っ黒の靄が出てきて王子様に襲いかかりました。
それを一凪ぎで倒した王子様の目の前には、白銀に輝くとても美しい姫君が倒れていました。
なんと姫君は悪い魔女に呪われていたのです。その呪いが姫君のもとを訪れる人々を呑みこんでいたのでした。
魔女の呪いを打ち破った二人は、王子様の故郷へ渡りいつまでも幸せに暮らしました。





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