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□そこにある、いま
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また進路のことで担任に呼び出された。
二年の最後に急に変えたことでちょっともめたのを知ってて、未だに気にしてくれる。善意なのは解っているけど、こうして下校時刻も大幅にすぎると、勘弁してくれと思うのは仕方ない。
よく言われるように、人が集まるところには色んなものが集まる。昼は喧騒に負けて潜む彼らを、無人の校舎の静けさは浮き彫りにする。
生徒のいない廊下に、エアコンの稼働音だけが響く。陰影のやたらにくっきりした廊下を行く足の動きが、自然にせわしくなる。
なのにそれを目の端に留めたのは、偶然としか言い様がない。
「二見?」
薄闇の教室に佇むシルエットに思わず声をかけて、後悔した。それが二見である確証なんて、「彼ら」でない確証なんてなかった。
薄暗い教室、しかも窓からは今日最後の名残みたいな柔らかい赤が射し込んでくる。逆光で顔なんか見えない。それでも、振り返った影が微笑んだのが解った。
「何してんだ、一人で」
理由もない焦燥感に、口から言葉が追いたてられるみたいに出てくる。考えてみれば俺にだって同じ質問が当てはまる状況だけど、二見は問い質しはしなかった。
近づけば、確かに笑っていた。ほんの少し、心音が穏やかになったように感じた。
つくづく不思議な奴だと思うのはこういう時だ。空気感というのか雰囲気というのか、何かを心得たような間合い。そんなものを体得している高校生なんてそうはいないんじゃないだろうか。
つられて教室に一歩踏み込んだ。廊下も開けっ放しのドアからもれる冷気に浸されていたけど、明らかに温度層ができている。少し寒いくらいだ。
「なんだよ」
「いやね、前にも言ったと思うけどさ」
前置きをして、窓の外に視線を戻す。
「アナタに呼ばれるのってやっぱり好きだなぁと再認識しまして」
予想の30度くらい上をいく答えが返ってきた。
これもいつものことだけど、二見は俺と同じ人類ではないような発想をする。ストレートのサインを出したつもりが、実際の球がアウトサイドのカーブだったくらいのギャップだ。野球のことはよく解らないけど。
「二見って、アナタに呼ばれると気がつくんだよね」
よほど変な顔をしていたのだろう、苦笑まじりに二見が首筋をさする。
「俺は二見だったんだなぁって」
だけど、継がれた言葉はひどく乾いてきこえた。
「…悪い、解んねえ」
「ですよね」
もうひとつ苦笑。
何を言っても間違いな気がして押し黙る。かと言って立ち去ることもできない。
こいつは今、何かに酷く傷ついている、あるいは疲れている。それが何によってかは解らない。ただ、直感的に解ってしまった。
二見がまたこっちを見た。
「アナタってさ、義仁だよね」
頷く。
満足そうに二見も頷いた。何がそんなに二見を喜ばせたのだろう。
二見とのつきあいは長くはないが短くもない。そんな期間を毎日、そこそこ近い距離でやってきたはずだ。
なのに未だに俺には、二見に関して解っていないことが多い。
「うん、合ってる。アナタって義仁だよ」
「意味解んねえ」
「意外と義理堅くて、意外と人情深い」
「意外で悪いな」
にっこりと、笑みが深くなった。とんでもない、とでも言うみたいに。
「思ったんだよね。つうかさ、たまに思うのよ」
そこで少し間があく。何かを考えているような沈黙が夕暮れの教室に落ちる。
重くはない。彼らの好む静寂とは量感の違う、暖色の沈黙。
遠く窓の外で必死に鳴いている蝉の声がきこえる。それはどこか別の世界の出来事みたいだ。たった一枚のガラスに隔てられているだけなのに。
もしかしたら二見は俺に言っていいのか、俺が二見の信用に足る人間か、吟味しているのかも知れない。
ただ単に言葉を選んでいるだけかも知れない。
「あのさ、」
控えめに、思慮深げにそう切り出した。
「名前がなくても俺は胸を張って俺だって言えるか、自信がないのよね」
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