Original

□狂うが先か狂われるが先か、しかし狂気に変わりなし
1ページ/1ページ



【狂うが先か狂われるが先か、しかし狂気に変わりなし】

 そうろり。目を閉じれば、聞こえてくる。微かに歌う、柔い声。
 じいろり。目を開けば、聞こえなくなる。悲しく消えた、遠い声。


 私には美しい妻と、可愛い一人息子がおりました。しかし妻はこの頃聞こえる何か不思議な音で、狂気を身に纏い、ただただ、さようならとごめんなさいを繰り返しております。私の息子は、つい先日、私の書斎で首を吊っておりました。息子の部屋の、机上に転がった鉛筆は折れており、その木製の机には、深く濃い墨色で、ひたすら文字が描かれておりました。

 声が聞こえる声が聞こえる声が聞こえる声が聞こえる声が聞こえる声が聞こえる……コエガキコエル。

 私にはその声は、死ぬまで一生聞こえないでしょう。

 しかし妻にはそれが聞こえているのであります。息子の声なのでしょうか。それならば、私も、あぁどうか、私も。私も愛しい息子の声が、聞きとう御座いま「さようなら、さようなら。お父様、お母様。私はこうして、命を断ち、土の奥で歌い続けています。命のあったあの頃に、私が毛嫌いした音であります。ごめんなさい、ごめんなさい。お父様、お母様、聞こえるでしょうか。私の歌声が、聞こえるでしょうか」思考の向こう側からしっとりと聞こえてきたのは、愛息子の声。なつかしく、聞き慣れた声でありました。そしてさようならとごめんなさいを紡ぎます。愛おしくなった私は応えたのです。それに、応えてやったのです。
「いいえ、お前。私たち両親はお前がいなくなってとても寂しくて、悲しくて、辛くて仕方ないのです。お前の歌声は美しく、私の耳を飾ります。聞こえますよ、聞こえますよ、私の愛しい息子」
 そうして、息子に、応えたのであります。息を吸うような、そんな音が一瞬響き、私は目を開きました。妻が目を閉じれば聞こえてきて、目を開けば聞こえなくなるという話をしていたからです。

 息子の死んだ、書斎で一人。空しく涙を流します。息子はもうここには居ない。闇から光に目が慣れて、小さく息を吐きました。自室に戻ろう。そう思って振り返りますと、何とそこには、懐かしい姿が有りました。

「お前……!」

 死んだはずの息子が、天井からぶら下がっていたのであります。ぶらんぶらんと揺れる足は鬱血して黒々としており、目は飛び出して舌はダラリと投げ出されております。息子の愛らしい形相からかけ離れたそれに、私は息子のそれを呼びました。

 光を失ったその眼球が、ぐるりと回って私を見たとき。

 時、既に、遅し、で、ございました。



「ではなぜ聞こえないと笑い、私を笑い、他人から遠ざけ、異端と称し、その拳で痛めつけ、その欲望を私の尻に突き立て、私の首を絞め、縄で縛り、この場所に吊るしたのですか? 書斎はお母様も入らぬ場所。あなたは私を傷めつけ、一心不乱に腰を振り、私の全てを白い体液で塗りつぶしました。あなたが私を殺したのですそうです殺したのですよお父様、あぁ、憎い憎い、にくい、にくい、ニクイニクイニクイニクイニクイイイィィィイイイイイ!!!!」

 狂った声が響きます。

 私が狂ってしまったとき、息子も狂ってしまったのです。



 息子を殺したのは私の愛情と欲望。

 そして、心地よすぎる息子の、あの蕩けるような憎しみの歌声だったのです。





.

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ