Original

□水鏡
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 そんな風にしないで。

【水鏡】

 私は一人、冷たい雪の上を歩いていた。それはツルツルに凍っていて、私はふらふらと覚束ない足を、もつれさせながら歩いていた。どんなに息を吐き出しても、それが透明に戻ることはなく、深い雪に沈むように、白く、白く、濁る。私は雪を足裏で捕えては逃がし、捕えては逃がしを繰り返し、目指していた。濁った私の息すら溶かす暖かな、瑠璃色を。ゆったりとぬるま湯のように、中途半端に暖かなそこへと足を進めれば、あの人の声が聴こえるのだと信じているからだ。
「カイ……」
 静かな白に飲み込まれる。それ程小さく、掠れた声で、私が呼ぶのは彼の人の愛しい名前。その名前は、朝に「おはよう」と言うように、夜に「おやすみ」と言うように、まるで当たり前の日常の一部と化していて、だから私は未だ気付かない振りをしている。
「カイ……」
 いつか、瑠璃色の波が、私の温度を攫って、生ぬるい体温を消し去って、互いに呼び合える距離まで、私を連れて行ってくれるのだと、そう信じているのだ。今でも覚えている。未だに、なんて言わない。私の名を呼ぶ、あの人の声を、吐息を、心音を、体温を。手の優しさも、足音すら覚えているというのに。その面影はまるで、夕立にかき消されたように、気が付けば、ぼんやりと象る輪郭すら消え去っていた。
「カイ……」
 私を強くするのは、名前だけで。私を弱くするのは、私だけで。
『    』
「――――っ!」
 静かに笑むように、それは響いた。あの人の声が、聴こえないように、両耳をギュッと塞いだ。私に微笑みかけてくれる顔は忘れ去っているというのに、優しく紡ぎ出す音楽は覚えている。
「ああああぁぁああっ」
 狂ったように蹲った。冷え切ったそれは、まだ瑠璃色ではなく、未だに白く、私の大腿部から素早く温度を奪っていく。私はそっと、攫ってほしいのに。そんな、乱暴に、奪ったりなんかしないで。そんな風に、しないで。あの日から、もう何年も経つのに、あなたの声が汚れないのは、私の手が届かないからだ。声が届かないからだ。あんなに近くに居たのに、吐息すらかかり合うほどの距離に居たのに、今ではもう、遠く。私が凍った雪を滑りながら歩くのは、懺悔でもなんでもなく、言うなれば、罪を犯したあの日を、むしろあの日々を、美しいままで押しとどめる為だ。それでもゆっくりと、死ぬように歩いた。なのに、届かない。仕打ちだ。わかっている。だから、いい筈なのに、大丈夫なのに、なのに。あの人の指の温度が、体中に沁みついたままで、上手く歩ける筈なんて、ない。それに気がついてしまった。ずるずると、爛れた皮膚が剥がれ落ちるように、笑った。
 どこへ、行くのよ。あの人のいない世界で、どうやって生きるのよ。顔だけじゃない。あの人が「笑って」と言う声も、「踊って」と言う笑顔も、忘れてしまってもう、何一つ思い出せないというのに。瑠璃色はまだ見えないのに。あの人と同じ名前のそれは、色すら見せなくて、気配もない。波の音すらしない。指の温度を感じて、肌が焼けるように震えるのは、何も、全てを覚えているからではない。覚えてなんかいない、今は何も。ただその温度だけは、居座るように、私の心の中でクスクスと笑い続けているのだ。
下唇を噛んだ。悔しいわけでも、哀しいわけでもないけれど、ただ強く、噛んだ。感情が分からない。そんな論理的でないものなんて、形がなくて、おぼろげで、私は怖い。だけど。そんな感情の塊で居られた。あの人が居た頃は。今は、そうではない。心臓の奥が、空っぽになっている。だって、耳鳴りが消えた。血液の流れる音がしない。私の心臓は動かない。冷たくなって、凍えてしまった。悴んだ手を擦り合わせず、そっと目を閉じても。私の身体だけが静かに生き散るだけで、暖かく美しい筈の思い出だけが、生ぬるく傷んでいる。
「カイ……」
 上手く言いきれなくて、ごめん。本当なら、もっとちゃんと言えたのに。あの人が、居なくなってしまう前に。私の心臓が、固まってしまう前に。本当なら、聴こえる筈の声が聴こえないのは、私が耳を塞いでいるからで。頬をなぞる指の温度が、内から滲み出て私を融解させるのは、私があの人を愛しているからで。忘れたわけじゃない。思い出せないんだ。同じじゃない。正反対なんだ。人間の音なんて、思い出せないんだ。馬鹿の一つ覚えみたいに、あの人の名を吐き出すのは、呂律が回らなくなったからだ。私はもう、それしか言えないのかと。悔し紛れに、からまる舌を切り落とした。そうしたらもう何も言えなくなって、死にたいほどに後悔をした。ぎゅっと抱きしめて、自分の身体を、まるで誰かに重ねるように、愛しげに撫でる。痛い、痛い。体中が、痛い。キンキンと、沈むように内側から深く痛みが突き上げてくる。痛いのは、こうして熱い涙を流すのは、確かに心臓が呼吸するからであるのに。本当は気付かない振りなんかじゃなくて、気付かないようにしておきたかった。
「カイ……っ」
 引き剥がしたいわけじゃなかった。暖かく、生々しい温度を保つあの人を。それでも変なプライドに侵されて、私は強く、もつれた腕に爪を立てた。あの人のせいなんかじゃない。私が笑むことをしないのも、こうやって雪の上を歩くのも、こうして。
「カイ……」
 名前を、呼ぶのも。
「っ……あぁっ」
 思い出したように、足元に流れ着く、微かな温度。私の涙が作りだしたような、塩辛いそれは、包み込むようで。全部、悪いのは。水面に映り込む影。思い出す様に撫ぜた。温いそれを、慈しむように。
「会いたかった、カイ」
 あの人の好きなもの。笑顔、赤い靴、紫陽花、瑠璃色。私の好きなもの、笑顔、赤い靴、紫陽花、海。海、海、海。
「っ、あ、カイ、カイ、カイ!」
 白砂を攫えども、波は私を攫っては行かない。私を置き去りにしていく。
「やめて、待って、置いて行かないでっ……」
 どうするの。ゆるりと膝をつき、今更水面にゆれる、歪んだ自分の顔を見て、込み上げる物は、感情か、理論か。
「カイ……」
 目に塩水が入る。本来の濃度よりも濃すぎるそれは、痛い程に沁み込んでくるけれど。

「っ、海(カイ)ーーーーーーー!!」


 叫ぶ程に零れる私の涙の方が、海水を吸いつくす程に熱く、溶けるほどに濃い。

 あなたのいない世界で、私は何処へ行けばいいの。




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