海底散歩と四拍子

□人生万事塞扇が虎
1ページ/6ページ




休日というものは、誰だって心を浮かせ、そして弾ませるものである。
当然それは、東野早樹にとっても同じであり、
久々の非番である彼女は一人鼻歌を歌い出しそうな様子で、横浜の街を歩いていた。

既に、前から行きたいと思っていた舞台を見終えたところであり、東野はその劇場の近くにある新しく出来たケーキ屋に向かうところだった。
何でも、そこはかなり評判で時間帯や曜日によっては何時間も並ばないと買えないこともあるらしい。
だとしてもそこはやはり女性というべきか、どうせ近くまで来たのなら食べてみようと思ったわけだ。

やがて目前に目当ての店が見えた。
どうやら幸運なことに、並んでいる人も少ないようだ。
思わず東野の顔が綻んだ。
その時。




「…う、わー…」




東野の鞄が振るえ出し、その元凶である携帯を取り出せば途端に彼女は顔を顰めた。
其処に映る画面には、社の先輩である人物の名前。
このまま放っておこうかとも思ったが、取らなかったら取らなかったで後で面倒なのも事実なわけで。
東野は溜息を一つ吐いて、通話釦を押した。




「…現在この電話は使われておりません、電話番号を…――」
「ほー、今の電話は早樹と同じ声でガイダンスをするんだな…ってなるとでも思ったのか」

「出来ればなってほしかったです」



…やはり駄目だったか。
電話を少し離して小さく呟く東野に、電話越しで「あのな」と呆れ声がする。




「流石にその手は二度も通用しないぞ」

「そうですね、次はもっと違う方法で仕掛けることにします。
…それで、国木田さん。私に何か用でしょうか」

「……今、仕掛けるって言ったか?」



まあいい…、そう言うと国木田は仕切り直したように東野の名前を呼ぶ。



「非番のところ悪いが、太宰が仕事中に河に飛び込んだ…全く、本当にあの自殺嗜癖(マニア)、何とかしろ」

「別に私はあの人の保護者じゃないですし。寧ろ、国木田さんの方があの人と居る期間長いんだから保護者は国木田さんでしょ。
…というかどうせ国木田さんのことだから発信器でも付けてたのじゃないんですか」

「あいつの保護者なんて喩え誰に頼まれても断るに決まっているだろう。
…それと発信機は確かに彼奴に付けていたんだが、どうやらその発信器を付けた財布ごと、河に流したようだ」

「…成程」




…もしかして、発信器が邪魔だから財布と一緒に流したのでは…。
という考えが一瞬過ったが、東野は敢えて口を噤んだ。言ったところで、この電話の主の心労(ストレス)を蓄積させるだけだろうと思ったからだ。




「俺が付けた物は駄目だったが早樹の付けた物ならまだ機能しているのではないかと思ってな。済まないが、あの莫迦の捜索を手伝ってほしい」

「まああれは私が作った物の中でも結構な自信作ですけど…」



そこまで言って、東野は一度思索する。
目の前…もう少し歩いたところには、これから行こうと思っていたケーキ屋。




「…劇場の近くに新しく出来たっていうケーキ屋さん」

「……は?」

「私、今からそこ行こうって思ってたんですよねー。美味しいって聞いたし。でも国木田さんが、非番の私に、『わ・ざ・わ・ざ』頼むっていうなら諦めるしかないのかなー」



『わざわざ』の箇所を敢えて強調させて言えば、国木田は一瞬息を飲んだ。




「…何が言いたい」

「楽しみにしてたのになー。あそこのケーキ屋さん、シフォンケーキが有名で、クリームと相性抜群って言ってたから気になっていたのになー」

「待て。それはもしかして以前、お前と与謝野女医(せんせい)が話していた、最低1時間は並ぶっていうあの店か?」

「折角の機会(チャンス)だったのになー。食べたかったなー」




東野がそこまで言った所で、電話の向こうからの声が途絶えた。
耳を澄ませば、電話が切れたというわけではないようで、国木田の低く唸るような声が聞こえてくる。


やがて。




「……分かった。今回の御礼として今度俺が買ってくる。それでいいか」

「その言葉、ちゃんと録音しておきましたからね」



東野は電話越しの項垂れたような国木田を想像して、小さくニヤリと笑った。
こういう取引をして彼が守らなかったことはない。
どうやら、自分で並ばずにケーキを食べることが出来そうだ。




「じゃあ国木田さん。とりあえず発見したらまた連絡します」

「ああ、頼んだ」




短くそう告げられ、東野は電話を切った。
そして鞄に仕舞うと同時に出したのは、発信器の信号を追うための小型の機械。
形状としては全身黒く、とてもそれのみでは発信器の位置を知ることは難しいように見えた。

当然と言えば当然である。
それはあくまで、電波の『受信』の意味でしか機能させてはいないのだから。




「さて…やりますか」




東野は受信器に意識を集中させると、小さく息を吐いて呟いた。




「異能力」




…――ふと、何処かで聞いた優しい歌が東野の耳を霞め消えていった。



.
次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ