海底散歩と四拍子
□在りし日の…
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「確かこの辺りだった筈…だけど」
階段で下の階へと降りてきた東野は、きょろきょろと見渡してみる。しかし先程の衝撃音から大きな音はなく、辺りは静寂が広がっていた。
「もしかして違う階だった…?」
それならと踵を返そうとしたその時。
「―――――ない?」
「…え?」
本当に。
本当に、耳を澄まさないと聞こえない位小さくはあったが、聞き覚えのある声が聞こえた気がして。
東野は思わず立ち止まった。
振り向けば、目の前には一つの扉が立っていて、東野はそっと扉に耳を添えた。
「……気の所為?」
「―――ってよ!」
「……?」
今度は違う声で。
あれ、矢張り違うかったのか?
と思ったのは一瞬だった。
何故なら。
「笑い…声?」
先程よりは大きな声で、笑っているのが聞こえたからだ。
しかも、其の声は確実に聞き覚えのあるもので。
「どういうこ…――」
とだろう?
そう、言い切ることは出来なかった。
身体を預けていた扉が突然、勢いよく引かれたからだ。
あ、拙い。
そう思った時には、もう時はすでに遅く。
ゆっくりと、視線が衝突(ぶつか)る。
「手前は……誰だ?」
扉の前に現れた青年は、黒い鍔つき帽子に黒外套。皮の首飾り(チョーカー)も黒という、ほぼ全身が黒色の高級そうな服を着ていた。
明らかに機嫌が悪そうな其の男は怪訝そうに、東野を見ている。
「あ、えと…その……」
完全に油断していた東野は、予期せぬ事態に言い淀んでしまった。
何時もならこういう時、咄嗟の出任せが言えるのに今日に限って、上手い言葉が見つからない。
そして漸く開いた口は、少し震えた。
「……荷物受け取りに、来ました?」
「こんな処にか?しかも何で疑問形だよ」
そう言った黒帽子の男…――中原中也はふと思い当たることがあって、思索にふけた。
それは数十分程前に、扉の中……つまり地下牢で言われた、太宰からの謎の提案だ。
『君が云うことを聞くなら探偵社の誰かが助けに来た風に偽装してもいい』
『……それを信じろってのか』
『…ああ、そうだね。偽装しなくてもそろそろ迎えが来る筈だ。彼女が助けたということにすればいい』
『こんな所まで来る奴がいるってのか?手前が此処がどういう場所か判ってないって訳じゃないだろうが』
『来るよ……恐らくね』
『なんだ、珍しくはっきりとしないな』
『それは彼女次第だからね、私では持て余してしまうのだよ……素敵な女性だよ。本当に』
『は?』
『という訳だから中也。彼女には手を出さないようにね…――君が逃亡幇助の疑いを掛けられたくなければ、ね』
「…もしかして手前、太宰の莫迦を迎えに来たっていう、探偵社の奴か?」
「……ぅ」
なんで、今日に限って上手く交わせられないのだろう。
東野は少しだけ歯痒く思いながら、彼と一定の距離を取った。
この人、おそらく強い。
一応体術を習った身として、東野も何となくの感覚でその人がどれくらい強いのか分かる。
そして目の前に立つ彼は……確かに少々身長は低いかもしれないが、結構な腕前の持ち主であることは明白だった。
「…おい手前、今失礼なこと考えなかったか」
「き、気の所為ですよ」
あ、バレてた。
内心焦ったがそれを出さないように東野は無表情で答えるよう努める。
それに対し中也は「心配すんな。俺は手前を攻撃したりしねえよ」と肩を竦めた。
「…え?」
「ムカつくがあの青鯖と取引してんだよ、『探偵社の人間が迎えに来るが手を出すな』ってな」
「…なんで貴方はそんな取引に応じたのですか?貴方に利益はなさそうですけど」
「そりゃあこのままだと逃亡幇助の疑いが…」
「逃亡?」
「なんでもねえ!!」
誤魔化すように声を荒げれば、東野は何となく感じ取るものがあったのか「何だか大変そうですね」と苦笑いで返した。
「手前こそ、なんで単身でこんな危険な場所に乗り込んできたんだよ。そんなに彼奴のことが大事か?」
「だ、大事って…!」
思ってもなかった言葉に、林檎のように顔を赤らめて東野はぶんぶんと勢い良く頭を振る。
その様子がちょっと可愛らしいと思ったのか、中也はクスリと笑った。
「そんな必死になることか?」
「ひ、必死にもなります!大事、だなんて…そ、んなことない、はず…です」
徐々に声は小さくなっていき、最終的には不明瞭なものとなった。
中也は其れを聞きながら、いやそんな事あるだろ…と密かに思ったが、敢えて言わないことにした。
「それじゃあ手前、あの莫迦とどんな関係なんだ?只の同僚ってだけじゃあねえだろ?」
「太宰さんとの関係ですか…?」
中也に言われ、東野は少し考える素振りをみせた。
暫くして、何故か彼女から唸り声が聞こえ始める。
中也は其の声に驚いて、恐る恐る彼女に尋ねた。
「な、なんだよ」
「…何なんでしょう」
「は?」
思ってもみない返答に、中也は思わず呆気に取られた。
「そりゃあ、社の先輩であるっていうのは確かなんですけど…」
「んだよ、恋仲という訳じゃねえのかよ」
「…うーん。そのような…違うような……」
「随分煮え滾らないな、どうなんだよ」
「早樹を苛めるのは其処までにしてくれないかなあ、中也」
中也の背後から声がして、二人は慌てて振り返った。
そしてその存在に、中也は心底厭そうに苦虫を噛み潰したような表情をし、東野は何も言えず目を大きく見開いた。
「だ……」
「太宰!何で手前、上がってきやがった」
「何でって、予め説明しただろう?しかも私は『わざわざ』、探偵社の誰かが助けに来た態で偽装しておいたというのに。中也こそなんでまだ此処に居るのだい?」
「……ちっ」
太宰がわざとらしく『わざわざ』の部分を強調して言えば、中也は先程の出来事を思い出したのか、盛大に舌打ちをした。
其れを見て何か思い付いたと言わんばかりに、太宰がニヤニヤと薄笑いを浮かべる。
「それとも、もう一度お嬢様口調をやってくれるとか?」
「二度とやるか!!」
「えー。あれは傑作だったよ?」
「手前…!!」
「だ、ざい…さん」
今にも殴り掛かりそうな中也の動きを止めたのは、ポツリと消えそうな小さい声だった。
二人が振り向けば、目をパチクリと瞬かせる東野の姿があった。
太宰は彼女の姿を見ると、優しく微笑んだ。
そして、甘やかすような柔らかい声色で東野を呼ぶ。
「ああ、早樹。きっと、来てくれると思っていたよ。一人で大丈夫だったかい?変な帽子を被った男に変な事されなかったかい?」
「おい、変な帽子被った男って誰の事云ってやがる」
「へー。矢張り変な帽子に自覚はあったのだねえ、中也」
「本当に何時か、此奴死なす…」
苛立ちを隠さず小言を漏らしながら、中也は密かに太宰の言動を意外に感じていた。
太宰が女好きで其方の方に関してだらしがない事は、ポートマフィアに居た頃から変わらない。
だが、目の前の女性に対しての視線は、他の女たちに向ける其れとは何処か違っていた。
ポートマフィアに居た頃には見たことがなかった其れを、中也は珍しいと思った。
一体、他の女と何が違うんだ?
中也はちらりと東野の方を見ると、ちょうど彼女の紺桔梗色の瞳と目が合った。
「…えっと、何でしょうか」
「いや。何でもねえ」
「中也」
呼ばれて視線を移せば、心なしか不機嫌そうな太宰が見えた。
其処でふと、中也は先程の屈辱を再び思い返す。
…何か、この男に嫌がらせの仕返しをしてやりてえ。
中也は、其処で何か思いついたようにニヤリと笑うと東野の方へ一歩近寄る。
「なあ、手前。名前は?」
「へ?あ、東野早樹…ですけど」
「東野……偶々か?」
「何がで……っ!」
すか。
と、尋ねる心算の言葉は、中也の唇に飲み込まれていった。
触れるだけの軽い口づけだったが、東野は完全に思考が停止するには十分だった。
数秒で唇が離れる。
目の前で中也は為て遣ったりといった顔をして、東野をせせら笑った。
「中々良い反応じゃねえか」
「あ……え?」
「ま、嫌がらせは嫌がらせで返すってな」
「中也…」
ちらりと背後を見れば、太宰がどす黒い気を纏って彼を凝視していた。
そう、中也は太宰に嫌がらせが出来ないと思い東野に矛先を向けたのだ。
向けた結果が、口づけで。
…思ったより、この嫌がらせ効いたんじゃね?
そう思うと、中也の口元が少し緩んだ。
太宰の呼び掛けには答えず、東野の頭にポンと手を乗せる。
「それじゃ、さっさと退散するか。お前らも早く用を済ませて消えろよな」
そして満足そうにそう言うと、中也は二人を残し、そそくさと其の場を去っていったのだった。
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