海底散歩と四拍子

□人生万事塞扇が虎
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虎は確かに、東野に向かって突進した…はずだった。
しかし、それが叶うことはなかった。

虎は何かに阻まれたかのように勢いよく跳ねかえったのだからだ。

頭を振い虎はもう一度彼女の方へと走り出すが、彼女の元へ行きつく前に、何かにぶつかってしまう。




其処で虎は気付く。
虎と東野の間には、薄い壁のようなものがあった。
壁といっても黄色い半透明をしていて、どちらかというとそれはバリアのような物である。

虎は突然のバリアの出現に様子を伺うように東野を見た。
しかし、彼女の方はといえば、虎と目を合わせる気配はない…そもそも彼女は俯いたままで、その表情すら窺い知ることは出来ないのだ。


…――只、口元がずっと何か動いているのだけは虎にも分かった。警戒するように、虎は低く身構える。






「はーい。もういいよ……早樹」



と、其処に合わないトーンの声がした…それは太宰で、彼は優しい口調でそう言うと、東野の腕を掴みそのまま自身の方へと引き寄せた。
思わぬ方向からの力に、東野は抵抗することなく太宰の腕の中へと収まる形になる。




「……あれ、おさむ…さん?」

「そう、君の治さんだよ」




東野は顔を上げ太宰を見ると、やっと其処で彼に気付いたというような表情(かお)をした。
そして何が起きたのか分からないといった風にゆっくりと辺りを見渡す。




「え…私、なんで生きてるんだろう…」

「うーん、無視かな。此方はこんなに心配したというのに」

「ん…?と、というか太宰さん!あの、近い…!」

「そうかい?まあでも、諦めてしばらく大人しくしていてもらおうかな」



そう太宰が言ったのと、虎が彼等の方に向かってきたのは、ほぼ同時だった。
どうやら虎と東野の間にあったバリアーは消えてしまっており、虎もその現状を理解しているようだ。

真っ直ぐに、2人の元へと向かってくる。
そして、




「だ、太宰さん!後ろ、壁!」





彼等の背後には、聳えるように壁が立ち塞がる。
所謂、絶体絶命というやつだ。
しかしそんな中で、太宰は至って冷静に。
そして、冷徹に。向かってくる虎を見据えてみせた。




「獣に喰い殺される最期というのも中々悪くはないが…――君では私を殺せない」




そう言うと同時に、太宰は飛びかかろうとした虎の額に触れる。
すると虎の姿がみるみる変わり、やがて少年…――虎に怯えていた彼こと中島敦に、姿が戻った。

そのまま倒れていく彼を、太宰は東野を抱き止めていた方と反対側の腕で受け止めた。

しかし。




「男と抱き合う趣味はない」

「あ、ちょっ!」



太宰は要らないといった風に彼を離してしまった。
当然意識のない敦はそのまま地面に体を打ち付けてしまうわけで。
東野は呆れたようにため息を吐くと、太宰の腕から離れ敦の元に駆け寄る。
幸い、敦に外傷はないようだ。




「おい太宰!早樹!」

「あ、国木田さん」



名を呼ぶ声に振り返ってみれば、探偵社に戻っていたはずの国木田が倉庫の入り口から彼等の方へと走り寄ってきていた。




「ああ遅かったね。虎は捕えたよ」

「その小僧…じゃあそいつが」

「うん、虎の能力者。変身している間は記憶がないみたい」

「全く――次は事前に説明しろ。肝が冷えたぞ」

「え、なにそれ?」



国木田が持っていた紙に東野は小首を傾げて内容を読む。
見れば『十五番街の西倉庫に虎が出る 逃げられぬよう周囲を固めろ』と書かれてあった。
どうやら東野が食事処で考え事をしていた間、太宰が渡したのだろう。




「これは……驚くよね」

「ああ。おかげで早樹以外の非番の奴らまで駆り出す始末だ。皆に酒でも奢れ」




そう言った国木田の背後に現れたのは、武装探偵社の調査員たちだ。





「なンだ怪我人はなしかい?つまんないねェ」



与謝野晶子
――能力名『君死給勿』





「はっはっはっ、中々できるようになったじゃないか太宰。まあ僕には及ばないけどね!」



江戸川乱歩
――能力名『超推理』





「でもそのヒトどうするんです?自覚はなかったわけでしょ?」



宮沢賢治
――能力名『雨ニモ負ケズ』





「どうする太宰?一応区の災害指定猛獣だぞ」



国木田独歩
――能力名『独歩吟客』





「うふふ、実はもう決めてある」



太宰治
――能力名『人間失格』




そう言うと、太宰は眠ったままの敦をちらりと見てから、東野へと視線を移す。
東野は其の視線に気付いたように太宰を見返すと、何か意図を読み取ったかのように小さく肩を竦めてみせた。





「まあ、いいんじゃない。反対は……しないよ。太宰さん」



東野早樹
――能力名『電脳遊歩』





東野の一言に、太宰は小さく微笑んだ。
そして軽く目を閉じ、ハッキリと言ってのける。





「うちの社員にする」





静寂は一瞬だった。
だがすぐに、探偵社員(この場合東野は除くわけだが)の叫びが倉庫中に響き渡る。
それを何処か遠くの出来事のように聞く東野は、そっと敦に近付きそしてその髪を優しく撫でた。


これが事の始まり――
怪奇ひしめくこの街で変人揃いの探偵社でこれより始まる怪奇譚。





「…なんてね。よろしくね…――敦くん」




中島敦
――能力名『月下獣』




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