海底散歩と四拍子
□有頂天探偵社
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太宰は珈琲のほろ苦い匂いで、目を覚ました。
其処には見慣れた天井が広がっていて。
ぼんやりする頭を掻いて匂いのする方へと向かえば、台所にはアイスブルーの前掛け(エプロン)姿で料理をする東野が立っていた。
東野は太宰の存在に気付いたのか振り返ると、「起きたんですね」と声を掛ける。
「お早う、早樹。今日も素敵だねえ」
「お早う御座います、治さん。朝ご飯、もうすぐ出来ますよ」
太宰の褒め言葉を軽く流してフライパンを掲げる東野に、太宰は「無視は酷いなあ」と軽く苦笑いを返す。
東野は訳が判らないと謂うかのように肩を竦めた。
「何の話ですか。それよりも早く準備してください。今日は珈琲?それとも紅茶?」
「早樹は珈琲かい」
「ええ、そうですよ」
「じゃあ私も珈琲を頂こうかな」
「判りました」
それだけ返して直ぐに食事の支度をする東野の後ろ姿を太宰は眺める。
ふと思うことがあって、ポツリと彼は呟いた。
「なんか良いねえ」
「何がですか?」
「まるでそう…新婚夫婦みたいだ」
「…は!?」
太宰の一言に慌てたように東野が振り返る。
混乱した彼女と違い、太宰はあくまで落ち着いた様子で微笑んでみせた。
「だってこの状況(シチュエーション)は当(まさ)に新婚夫婦って感じだし。何より、ポートマフィアの監獄で再会した時からずっと、君は私のことを『治さん』って呼んでくれているし」
「……」
東野は暫く固まったように動きを止めていたが、軈て一気に顔を真っ赤にして再び台所の方へと向いてしまった。
「早樹ー?如何したんだい?」
「……刷り込みって怖い…」
「んー?何だいー?」
態とらしく尋ね続ける太宰を必死で無視をすると、東野は「兎に角」と誤魔化すように声を上げる。
「早く食べちゃって下さい!私もう出ちゃいますよ」
「えー。というか早樹もサボれば良いじゃないか」
「こう見えて私、真面目なんですよ。それに国木田さんの電話を突然切った上に無視しちゃったから……ちょっと、怒られてくる」
「それは本当に真面目だねえ。まあ、私は明日ポートマフィアから脱出した事にでもするよ」
「そうですか。では、私はそのまま其れを国木田さんに伝える事にしますので」
「それは酷いなあ」
『酷い』と言っている割には太宰の表情は楽しそうで。その様子に東野は呆れたように「当たり前です」と、苦笑で返した。
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「…で、結局遅刻しちゃったし」
数時間前からの出来事を思い返し、東野は思わず溜息を吐いた。
出社の為出ようとする処を、太宰が引き留める事数回。
「態とでしょ」と尋ねれば「うん」と悪びれず答える太宰に、東野は盛大な溜息を吐いたのは言うまでもなく。
最終的に「次引き留めたら1週間御飯も作りませんし口も聞きませんから」という東野の宣言で、此の応酬に終止符を迎えた。
これで漸く探偵社に迎える。
そう安堵した東野は急いで支度を済ませ、家を出た。
……そんな彼女を待っていたのは、進む度に何故か求められる手助けと道案内の声だった。
元来、東野は人に声を掛けられない方の人間だ。だというのに、今日に限っては子供から御婆さんまで、様々な人に頼み事をされる。
気付けば出社時間を疾っくの昔に過ぎてしまっていた。
「こんな事なら太宰さんと一緒にサボれば良かった…」
只でさえ怒られる覚悟で探偵社に向かっていたのに、此れでは国木田に更に怒られる事だろう。
そう想うと東野の足取りはドンドンと重くなっていく。
「ひぅ!」
ふと、鞄から軽い振動があって慌ててその原因を取り出した。
其れは彼女自身の携帯で、息が詰まりそうな感覚のまま中を確認する。
「……なんだ。電子書面(メール)か」
其れは電話ではなく、電子書面到着のお知らせ音で東野は心の底から安堵した。電子書面を開くと、運営しているお悩み相談の掲示板に書き込みがあったというお知らせだった。
運営している…といっても、返答は誰でも出来るように設定しており、悩みを解決しているのは大抵自分以外のユーザーだ。だが、一応管理人として、内容は確認するようにしていた。
今回もそうで、東野はサイトを開き掲示板を見る。どうやら以前に相談の書き込みがあった人物が再び書き込みをしたようだ。
「部下が些細な事で経費で落とそうとするって悩んでたけど、解決したのかな…」
そういえばあの書き込み、酷く共感してる人もいたけど…。
そんな事を呟き、東野は今回書き込まれた内容を読む。
「…えっと、『尊敬している先輩が大怪我をしました。先輩を崇敬している部下達は私には敬意なんて持っていません。自分がこの仕事に向いていないとも思っています。もう、如何すれば良いか判らないです』…って結構追い詰められてるなあ」
というか、大怪我って何があったのだろうか。交通事故でも巻き込まれた?
少しだけ疑問に思いながら、んーと東野は手を顎に当てて思索する。そして軈て何か思い付いたように、携帯を操作し返事を打ち始めた。
「…出来たっと。此れを…送信」
打ち終えた東野は早速自身のサイトの掲示板に書き込むと、携帯を鞄へと仕舞った。
そして顔を上げた時、見覚えのある青年二人が道端で立ち止って話しているのに気付いた。
その姿に一瞬東野は一瞬ドキリとしたが、『此処で避けても仕方がない、何時かは会うのだ』と思い直し、彼らの元に近付くことにする。
小さく息を吐き、平然を装って声を掛けた。
「あれ、敦くんと賢治くんだ」
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