あ
□あ
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「教授」
「…ああ、君か」
僕はいつもの扉を開いた。教授は相変わらず一拍置いて僕を認識する。その手には、見慣れた白いマグカップが湯気をたてていた。
「で、今日は何の用だね」
「ちょっと時間空いたんで」
「私は暇つぶしの道具とは違うんだが」
「いやっ、決してそういうことじゃ」
「まあいい。君も一杯どうだ」
教授は黒いマグカップを掲げて問う。僕は素直に首を縦に振った。今日は少し肌寒いから、温かいコーヒーはちょうどいい。座る場所を探していると、目の前に椅子が現れた。
「探し物はこれかい」
「あ…、ありがとうございます」
これは、この空間に居場所を作りたくて持ち込んだ折りたたみチェアだ。机の上や床に散らばる資料や道具を紛失したり破損しないようにした、僕なりの結果だった。
「あったけ…」
口をつけると、身体中に温もりが広がっていく。やっぱり格別だ、ここで飲むコーヒーは。そういえば教授は、いつもコーヒーの香りを漂わせている。講義中でも、廊下ですれ違っても、鼻腔をくすぐるのはこの独特な匂いだった。
「そうだ。教授、お昼は?」
「ああ、もうそんな時間なのか」
教授には一日三食の概念が無いのか、空腹を感じたら摂取するという、極めてスローペースな生活を送っているらしい。そんな状況を見かねて、たまに僕が軽食を差し入れている。
「売店のおばちゃんの一押しですよ」
「そうか」
いただきます、教授は手をあわせて昼食を摂り始めた。時計に目を遣ると、針は直角を作っていて、そうか、もうこんな時間なんだな。
「おやつになっちゃいましたね」
「君、講義は」
「はい。そろそろ戻ります」
チェアを折りたたみ、邪魔にならない隅へと寄せる。じゃあね、多分またすぐ来ちゃうと思うから。
「では、失礼しました」
扉を閉めた瞬間、一気に騒がしくなる。今この空間で過ごした時間がひどく遠い昔のようで、少し不安になったけれど、微かなコーヒーの残り香と、手の平の温かさが、冗談なんかではなかったことを証明してくれた。
次は、いつ行こうか。