ボーダーラインを飛び越えて 1

□fourteenth.
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 記憶の中で一番幸せな家族の時間かもしれないと思える日々を身を持って経験している。指先からほのかに甘い香りがする気がしてレギュラスは微笑む。

家の外観からは想像もつかない広大な庭に貴族ならではとも呼べる自慢のバラ園が広がり、白薔薇が巻き付いたアーチを幼少期に何度も潜りシリウスと追いかけっこした記憶すら思い出せた。

下品で安い匂いでは無く一輪から微かに香る淡い香りの糸が絡まって帯となり茶会をする家族をそっと包んでいる。

差し込む穏やかな日差しが心地よくて、あの母でさえ穏やかな顔をしている……そんな家族の中で一人だけ不貞腐れた顔でサクサクと軽快な音を立てリスのようにクッキーを食べる奴が一際目立っていた。


 シリウス専用の甘さ控えめクッキーは他の三人分よりも多い量が大きめの皿に山盛りになっていたが、順調なペースで山頂が皿に近付いてきている。

茶会にリスが紛れ込んだどころかキツツキが紛れ込んだのでは、と情緒も無い様子に紅茶に口をつけていた父が苦笑しながらも窘めた。
 
「シリウス。どうせなら一口で食べたらどうだ?クッキーを歯でスライスするのは中々に可哀相だ」

「……スライスしてねえ。味わって食ってるだけ」
 
 相変わらず不貞腐れた顔をしてる癖に食べるのだけは止めないシリウス。彼の利き腕は皿と口を往復するのみ。

大好物である肉を食べる時の蕩けきった顔とは違い、少々不味い物でも食べているような表情に母がたどたどしく自らシリウスへ疑問を問う。

ピタッと手も口も表情も止め驚くシリウスが口の中の物を飲み込み、母から視線を逸らしつつも素っ気無く返答する。

 
 まともな会話は罵り合いだけという関係が長らく続いていたからこそ実に気まずい雰囲気が隠せない様子だ。それを肌で感じながらもレギュラスは紅茶に口をつけ会話の流れを読む。

まず罵り合いには発展しにくい関係にはなってきていると踏んでいるが何が起こるかまだ分からない。それにシリウスが溜め込んでいる両親への負の感情が爆発する引き金は……恐らく母が持っている。

そうなったら茶会どころでは無いだろうが、レギュラスのすることは見守るだけ。言葉も無く分かり合えという方が難しい。

ならばいっそ全てを曝け出してしまう事の大切さを、レギュラスは誰よりも理解していた。


「その、シリウス……美味しくないのかしら?」

「……別に。そこまで言ってねえだろ」

「チキンを食べる時と顔が違うじゃないの。甘さが強かったかしら……」

「っだから……っそうじゃないって……!」


 少しずつシリウスの瞳に怒りの揺らぎが見え始め口調も荒っぽく変わっていく。

父が止めようと動作をする前にレギュラスはそっと制止をかけ、誰よりも冷静な瞳で導火線に火がつけられた現場を見守っていた。

父の何とも言えない眼差しは祈る様に眼前に組まれた指に額を押し付けることで、伏せられた瞼に覆い隠されてしまう。それを皮切りに揺れる程強くテーブルに手を叩き付けたシリウスの怒りは爆発する。


「何なんだよ!本当にっ今更何なんだよ!?どの面下げてもう一度家族なろうとしてんだよッ無理に決まってんだろうが!!馬鹿でも分かるだろ!」

「シリウスっ親に向かって何ですかッ」

「親に向かって?ハハ……本気でそう思ってんのかよ。思ってねえよな?だからそんな軽い言葉を吐けるんだよ……っ」

 母を嘲笑うシリウスの形相は心臓を抉るように鋭く、彼の瞳には極寒の氷で出来た怒りが凝り固まり、底冷えする恨みが込められていた。

レギュラスが心が強いと尊敬を感じていた兄の優しい心の奥に潜む物の正体はーー親への恨みだった。


 実の親に向けるとは思えない眼差しで母を睨みつけたシリウスは怒りで震える声を必死で紡ぎながら、無理矢理塞き止めた想いが孤を描き溢れ出すように、ヒートアップしていく。

今までの罵り合いをしていたシリウスとは違い本気で怒りをぶつけてくる事に母は絶句していた。その間も母のみならず父にまで怒りの矛先は飛び飛びに突き刺さる。

 
「あんた俺がグリフィンドールに入った時吼えメールでこういったんだ”我が家の恥です”ってな。その年の冬休みでは更にこういったよなーー”産まなければよかった”って……」

 シリウスの顔は歪な笑みを浮かべていた。悲しそうにも苦しそうにも見える辛いモノ。

その顔はレギュラスが過去に記憶で見た兄の顔によく似ていた。ただ笑うことはしておらず口元は食い縛っていたが。きっとその時からシリウスは幼い心を抉る言葉に苦しめられていた。

それをたった一人で純血主義に浸る他の家族を遠目で見て疎外感をどれだけ感じたことだろうか。

「ジジイだってそうだ”長男としての責務を果たせ”とか”何故親の指示に従わないんだ”やら”血と純血を裏切った愚かな息子”だとかッあんな、あんな冷たい目で俺を見下してた癖にっ」


 父の組んだ指先が力を籠めすぎて白薔薇よりも白く小刻みに震えている。父も母もブラック家の誇りを汚したシリウスへ深く突き刺した言葉を覚えているのだろう。

だからこそ二人の顔色は青白く血の気が引いたように見えるとレギュラスは思う。

引き攣るような悲痛な声は止まずにこの場に降り注ぐ。レギュラスにはいつもは大きい兄の姿がとても小さく自分と同じ位の姿に見えて仕方なかった。


「あんた達が本当に俺の親だったならッそんな言葉言わなかった!他の親戚からの嫌がらせから守ってくれた!俺を邪魔者扱いしなかった!ーー何ひとつしてくれなかったじゃねえかよ……ッ」

 はぁ、と重い溜息が茶会へと加わる。シリウスは震える声をどうにか紡ぎ、波紋を刻む紅茶を見下ろしたまま苦しそうに言う。

「簡単に俺を捨てたあんた達が今更家族になろうったって遅いんだよ。どう信じろって言うんだ。俺はもう……誰かに簡単に切り捨てられる苦しみなんて、忘れたい。味わいたくも無い」

ーー俺を裏切ったあんた達のことを許さないからな……!


 死の呪文のように深く突き刺さる呪いの言葉。シリウスの瞳に映る怒りの氷が悲鳴をあげるようにその目には色んな思いが詰まる熱い涙が溜まっていた。

しん……と世界から音を無理矢理奪ったように静まり返る。息が詰まるほどに重い空気はシリウスが両親へ感じていた絶望のほんの一欠けらに過ぎないのだろう。


 レギュラスはシリウスの気持ちを初めて聞いて、過去の自分さえも知らない兄の苦しみに衝撃を受けた。口を挟まないと思っていたのに何か声をかけたいと思ってしまう。

だがこの場においてどんな言葉をかけたらいいんだ。どんな言葉も愛の言葉でさえも意味を持たない気がする。レギュラスは兄にかける言葉が見つからず、悔しそうに唇を噛み締めた。


 その横でずっと沈黙を貫き祈る様に手を組んでいた父が動く。様々な視線を浴びながらも硬い表情の父はシリウスの頭へと手を伸ばす。

反射的に怯えた後に威嚇する目付きで父を睨みつけるそのすべてを受け入れながらも、父はシリウスの頭へとそっと触れる。

驚愕に目を見張るシリウスへと、前回撫でた時よりもずっと上達した腕前を披露しつつ、ただーー大切な息子の名前を呼ぶ。


「……シリウス」

 呼ばれたシリウスの肩がビクッと跳ねた。父は丁寧に硬い黒髪を撫で時折旋毛の所をくしゃくしゃに撫で、癖の無い髪を元通りに直しまた撫で続ける。

その間も父は名前を呼ぶ。

淡々と呼ぶ訳では無く、名前をつけたその時の感情を何度も吹き込むように。シリウスが耳を塞ぎたくなるほどに酷く愛が込められた胸を打つ声だった。



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