鋼の錬金術師
□act.0.5 序章
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雨が降る夜。空を見上げれば雲がどんよりと世界を覆い、ひっそりと静まりかえった町の片隅では、電球の切れかかった街灯が水溜まりの上に影を落とす。
そんな町の中、雨音に紛れて2つの足音が路地に響く。時折もつれ、水を激しく跳ね上げる足音と、それを追いかける、ゆったりとした足音。やがて街灯の下で転んだのは、1人の男だった。
尻餅をついたまま怯えたように後退りを始めるその姿を、不規則に点滅する光が照らし出す。
「たっ……頼む、見逃してくれ!」
命乞いをする男の視線の先にいるのは、黒いコートを身に纏った青年。被ったフードの下から覗く暗青色の瞳が、冷たく男を見下ろした。
光が届かない場所で雨に紛れて立つ様は死神を彷彿とさせる。"恐怖"。それを具現化したかのようなその姿に、男は更に怯えた。
「何でもする!頼むから命だけは――」
「うるさいなぁ」
必死に絞り出したであろう言葉はあっさりと遮られる。口調こそ軽いがその声音は低く、男は思わず黙り込んだ。
「別に何もしてくれなくていいよ。俺は見返りを求めてる訳じゃないから」
思いがけない回答に、男は困惑する。今までこういった人種に遭遇したことがなかったのだ。大抵は欲のある人間相手に交換条件を出して、危機的状況を切り抜けてきた。
しかし、見返りを求めない人間に交換条件は通用しない。
「じゃあ目的はなんだ?こんな事をして、後悔するぞ……!」
半ばやけくそになって叫ぶ男。彼だって説教出来る立場ではないのだが、そんなことに構っていられない程に必死なのだ。一方。
「後悔ならもうしてるよ。給料良いからって用心棒引き受けた俺が馬鹿だった」
「まさかこんな事してたとはね」と溜め息混じりに言う青年に、緊張は感じられない。怒りからなのか恐怖からなのか。顔を歪ませる男を前に、青年は淡々と語る。
「俺も良い子ぶるつもりはないんだけどさ、死体を見たら黙ってる訳にはいかないでしょ?しかも口封じで追いかけ回されるし」
青年の視線は目の前の男を離れ、やれやれといった風に空を見る。灰色の雲が、どこか無機質な瞳に映りこんだ。
「クソッ……化け物が!!」
絞り出すように口にした、精一杯の虚勢。しかしそれも、僅かな時間しかもたない。
「ひぃ……っ!」
短い悲鳴。いつの間にか目の前に現れたのは、街灯の光に照らされて鈍く光る銀の銃口。男のなけなしの勇気はあっさりと挫かれる。
「化け物って……傷付くなぁ。あんたらの方がよっぽど残酷なことしてたと思うけど」
ま、間違って無いけどさ。
自嘲気味小さく呟くと、青年は引金に指を掛ける。
「まぁなんと言った所で今夜で最後。これで俺も平和な日常に戻れるよ」
ゆっくりと吊り上げられる口端。それはまるで三日月のように、愉しげに弧を描く。
「それじゃ、」
「まっ待――」
「さようなら」
切羽詰まった男の制止の声も虚しく、引金は引かれた。銃声は雨音に紛れ、気付かれることはない。
「――なんてね」
銃弾は男の耳をかすめ、地面に突き刺さっていた。男はといえば、気絶して水溜まりに倒れ込んでいる。そんな男をロープで縛りあげると、コートのポケットから何やらビニール袋に入れられた書類をロープに挟み込む。
「あーあ、また無職か……」
今後の生活と財布の中身を思って少し面倒臭そうにそう呟くと、青年は雨に紛れて歩き去った。
点いたり消えたりを繰り返す街灯の下。男が無様に横たわるそばで、小さく影が蠢いた。
「やってくれましたね……」
雨に掻き消されてしまいそうな程小さな声が、ぽつりと呟く。その声は、青年のものでも男のものでもない。間もなく、その声の気配も消えた。
近隣の住民が、縛られた男と謎の書類の存在に気付くまで、あと僅か。
2012/03/06