其他

□俺の世界を召し上がれ
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何年使っただろう。二桁はいかないか。
一桁の最後の方の数字だと思う。それくらいは愛用していた音楽機器が、壊れた。軽快に舌を打ち鳴らし、コンクリートの乾いた地面で剥き出しの基板を見せつけるそいつを拾う。形ある物は例外なく壊れるが、この件に関して言えば俺のミスだ。手から滑り落とした。ストラップも当然ながら付けていないし、あっと思って手を伸ばしたところで重力には抗えない。カシャンと良い音を立てて一気に崩壊、このザマである。笑えるね。
「あーマジ勘弁。今月はもう浪費できねーから。」
呟いてみたところで掌の奴が元に戻るわけもなし。笑えるよ、本当。
世界を殺されたような錯覚に陥る。音と、それに強引に乗せられた単語の連なりを聞いている時の俺には、確かに居場所があって。それが質量だとか他の人間だとか、そういう物の全く存在しない所へと連れて行ってくれる訳だけれども。

殺されたなぁ、これは。
数年間浸ってきた心地好いぬるま湯みたいな俺の世界が。

今日だけではない。今後一切あの世界が、先刻までは「この」世界だった俺だけの世界は、もう永遠に戻らない。

騒音が厭に耳につく。短いスカートを穿いた女子高生が、馬鹿デカい声で笑いながら歩いて来る。後ろから無音で通り過ぎたニット帽の男が、口元を笑みの形にして携帯端末の画面に魅入られている。

その指が淡々と打ち込む文字は、猫背な男の悪口だろうか。
キーンと響く女の声が意味するのは、死んだ目の男に対する否定的な感情だろうか。

奪われて戻された世界は、俺にとって余りに酷だ。
そう思う自身も好きではないし、しかしこの思考から逃れる術も持っていないので、不機嫌を装い舌打ちをまた一つ。俺は今、腹が立っている。そう思い込んだ方がまだ楽に思えた。
剥き出しの配線が無機物を主張する。手の上の、俺の物だった世界。同じ顔の五人が迎え入れてくれる居場所まで、あとどれくらい歩けば良いのだろう。果てしなく遠い。

擦れ違う女二人。聞きたくない。その口から放たれる言葉は、きっと。音のしないイヤホンでは聴覚を奪えない。俺は歩けない。しかし立ち止まることも出来ない。

「それ、捨てんの?」

背後から俺を貫いた声は、ああ、五人以外の俺の居場所か。
「……ガラクタ集めの趣味はないんで。」
泣きそうなくらいの安堵感に包まれ、ゆっくりと振り返る。ああ、ああ、俺の居場所だ。この世界の絶対的な篭城だ。一番上の兄を思わせる得意げな笑顔で、そいつはただそこに在った。
「じゃあくれよ、一松。」
言うが早いか壊れた世界を奪い取り、奴は唸りながら覗き込む。俺の世界。まだ未練の残る穏やかで暖かな世界。
「これなら生き返るよ、お前の大事な大事なこいつ。」
奪い取った荒々しい手で、打って変わって壊れ物を扱うかのように、いや壊れてんだその通りか。そんな事はどうでも良い。
奴は愛おしげに配線と銀の基板を愛撫した。
「器は変わるが、んなこたぁどうでも良いだろ。容姿にゃ然して意味がない。」
俺の全てをお見通しの瞳で、優しく笑うから。似ている筈なのに、どうにも同じには成れない。壊れたものを目の前に、俺はどうやったってそんな顔して笑えない。帰ろうか、と差し出された手に素直に手を重ねる。ちっぽけで不完全な俺の居場所が乗っていた、掌を。今度はお前に委ねてやろうか。

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