其他

□放課後の茜色
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Ecstasy様提出作品



羊のような雲は傾いた日に染まり、汚れない白が橙色に変わる。何とはなしにそれを眺めて、目を細めた。窓側の一番後ろは私の特等席。誰にも邪魔されない穏やかな放課後が大好きだ。部活動に勤しむ誰かの声が聞こえる。開いた窓から涼しい風が流れ込む。それだけで私は良い一日だったと思えた。
カラカラ、と控え目な音が響き、ゆっくりと扉の方へ顔を向ける。スーツと眼鏡が篦棒に似合う金髪の男が微笑んでいた。

「何をしているんだ。」

静かに扉を後ろ手で締め、室内履きの黒いシューズで此方へ踏み出す。キュッとゴムが擦れる音がした。

「空を見ていました。」

微笑み返し、真っ直ぐ見上げる。澄んだ空の色をした瞳に私が写る。隣の椅子を引き、腰掛けた男は座っても尚背が高く、いつまでも見上げる姿勢を崩せない。首が痛くなりそうだ。

「先生は、なぜ此処に。」

ネクタイに落とした視線をそのままに問う。

「いつまでも帰らない不良な生徒の見回りをね。」

ふ、と緩んだ空気に思わず笑いを零す。それって私のことですよね。

「空が紫に変わるまで、もう少し此処にいてもいいですか。」

眉をはの字に下げて笑う私に、先生は呆れながらも許可を出してくれた。



「ねえエルヴィン先生、こんなこと将来何の役に立つんですかー。」

高校生らしい質問。恐らく学生ならば誰もがぶち当たる疑問だろう。それを高々と言い切った怠そうな少年は、プリントを前にシャープペンシルを投げ出した。それを見ていた周りの学生も騒つき始める。
赴任先の高校での初めての授業。見るからに若い外国人教師。頭の足りない学生は洗礼としてこの教師を困らせてやろうと思ったようだ。

「だってさあ、使わなくない?文法とか。過去進行形?何それ矛盾してんじゃん。」

ニヤニヤしながら手を頭の後ろで組む学生。エルヴィンと呼ばれた先生はきょとんとした顔で彼のことを見詰めていた。
馬鹿だなと思う。そうやって学ぶことから逃げて、出来ないストレスを発散させて。周りで喋り出す生徒と違い、私は授業放棄をしようとは思わない。思わないが、その答えには興味があった。彼は学生が学ぶ理由を何と答えるのだろう。

キュッと靴の鳴る音が教室に響き、先生は彼の前へ歩み出る。黒いスーツの両ポケットに手を入れ、にっこり微笑んだ。

「な、なんだよ。」

怪訝な顔で眉を顰める生徒。手を上げるのだろうか。ニホンの教育委員会は煩いよ。妙に冷めた頭でそう考えた。
すっと出された手には小振りな缶が握られていて、彼は少年の目の前でそれを振ってみせた。

「此処にキャンディの入った缶が二つある。片方は数種類の物がたくさん入っている。だがもう片方は一種類のみ少量だ。君ならどちらを選ぶ。」

笑顔を崩さない彼の思考は読めない。質問と何の関係があるというのだろう。

「おい、俺の聞いたことと何の関係が「答えて。」……多い方。」

ぶすっとした顔で答えた少年。彼は缶の中から一粒飴を取り出すと、少年の机に置いた。

「そうだね。量が多く、選べる方が良い。……知識と同じだ。」

口元を緩めるとぐるりと教室を見渡し、語り掛けるように凛とした声で話し出す。

「君達がもし会社を立ち上げて、一から社員を選ぶとしたらどんな人間が良い。年齢、性別、人種、資格……様々な比較点があるだろう。だが真っ当に生きてさえいれば、どれも似たり寄ったりだ。」

教室内をスローペースで巡回しながら手を後ろで組む。私は彼の姿を目で追った。

「そんな時、大きな比較材料になるのが中身の量。今、君達は日本語という言語を話し、日本という国で生きている。だが例えば英語を話せれば、どれだけの国の人間と意見交換が出来るだろう。国も習慣も文化も全く違う人間と交流してご覧。たくさん中身が増える。」

カツ、と音が止んだ場所は件の学生の前。腰を屈めた先生は少年に顔を近付けた。

「こんなことを学ぶ理由はね、自分の世界を広げ、未来の自分の選択肢を増やす為だ。……私に付いて来てほしい。話せる英語と受験用の英語、両方教えるよ。」

にこりと笑った彼に圧倒されたのか、ぽかんとした顔の少年は顔を逸らす。
変な人。適当に流してただ英語を教えればいいのに、こんな当て付けのような質問に本気で答えるなんて。そう思いつつ彼を眺める。顔を上げた彼と視線がかち合い、目を見開けば穏やかに微笑まれる。急激に上がった体温に気付かないフリをした。



「変な人だなって思いました。」

呟いた言葉はもしかしたら届かないかもしれない。少しずつ紫に侵食される空を見詰め、背後の存在に向かって吐き出した。

「でも、押し付ける大人よりは余程マシです。」

ふふ、と鼓膜を擽る笑い声が聞こえる。届いたようだ。

「大人に、なっちゃうんですかね。私も。」

星が滲む橙色の空にぽつりと零す。答えが欲しい訳ではない。ただ、怖かった。

「私も、自己中心的な汚い大人に、なっちゃうのかなあ。」

少しだけ震えた声に、苦笑する。何故かこの人の前では弱くなる。せめてもの強がりで顔を背けるけれど。右肩に温もりを感じ、戸惑っていると呼ばれた名と共にその肩を引かれる。強制的に向き合う形となり目を丸くした。何なんだ急に、言ってくれればちゃんと向き合うのに、等言いたいことはあったが、真剣な青い瞳に閉口する。どうしてこの人は私のことを知らず苦しめるのだろう。今だってほら、心臓が破れそうだ。

「君は汚い大人に等ならない。絶対に。」

そんな根拠も何も無い一言で、私は安心する。この人が変人ならば私も大概だ。それでもいいか。それでもいいや。

「先生のような大人になりたいです。」

正面から受け止めた視線を見詰め返す。青い瞳の中で私が真剣な表情をしていた。心臓を掴まれ、握り締められたような感覚に陥る。毎度のことながら痛い。

「先生のような……大人になって、隣に立ちたい。役に立ちたい。横に並んで恥じない人間になりたい。先生の傍にいたい。尊敬でも憧れでもありません。これを人は何と言うんですか。」

胸が痛いんです、と付け足せば、先生の瞳がゆっくりと大きく見開かれた。この表情はレアだ。初めて見た。心中で控え目に喜ぶ。

「それは……本当かい。」

揺らぐ青色。眉も下がり、何だか泣きそうな顔だ。え、そんな。泣かないでくださいよ先生。先生泣かせだなんて私、本物の不良になっちゃいます。

「だ、駄目なことを言いましたか。」

困り切って目を泳がせる。と、頬に温もりが触れた。

「本当なら、私は告げてもいいのだろうか。」

悲し気だと思っていた表情は実は苦しそうな表情だったらしい。胸が裂けそうな時の私とよく似た表情で、まるで罪を白状するかのように彼は囁いた。

「好きだ、君のことが。」

その言葉に、何故か涙が零れ落ちた視界が捉えたものは歪んだ彼の姿。金の髪も、黒いスーツも茜色に染まり、困ったような、でもどこか嬉しそうな顔で笑う姿。どうして涙が溢れるのかなんて分からず、それでも心が温もりを求めて目の前の茜色に抱き着いた。





(私も好きです、貴方のことが。)

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