企廓書庫
□奇つね狐譚
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日ノ本には八百万の神々がおわし、数知れない魑魅魍魎が闇に身を潜めているといふ。
往にし方へには死して雷神と化られた御方が、また烏天狗に刀の扱い方を習うたという英雄がいた。
奇譚は勿論戦国の世にも数多にある。
尾曳城の狐の恩返しに、約束を果たされずに隻眼の蛇へと姿を変えた母の怨念。
人身御供として埋められた処女の啜り泣きが聞こえるという話しは何処の城でも一度は囁かれていた。
そうしてここにも青史には残らない奇譚が一つ。
ある年、ある頃。
きらきらと金波が寄せては返す、常と何も変わらぬ鳰の海を望む佐和山天守閣には不穏の波が立っていた。
緑青の小袖に黒木賊の袴。桜鼠色の被衣を被り、狐の面を付けて部屋に入ってきたくせ者に、佐和山城主たる石田三成は慌てて腰刀に手をかけた。
まさか、と。
昼間から家臣も多くあるのにと天守に現れた狐の面の男に動揺する。
男は生じた隙を突き、飄悍な動作で三成の抜刀を防ぐ。
きっ、と睨むと俺です、と慌てた風に男が喋った。
『“とうかの面”って噂を知ってますか?』
耳に慣れた声の様子は己の禄を全てくれてやっても良いと、それ程までに惚れ込んだ家臣。
しかしこの世には乱波、透波の類が跳梁跋扈している。
男は三成の考えていることが分かったようで懐に手をいれ、小刀を出してみせた。
朱に金の唐草牡丹の模様が刻まれた華麗な刀の柄には石田家の家紋が。
それでやっと三成は刀にかけた手をどけた。
それは三成が間違いなく筆頭家老島左近に下賜した小刀であった。
「何だってそんな恰好を…」
む、と唇を尖らすとまぁ事情がありましてと彼らしくない曖昧とした応えが返ってきた。
「それより先の左近の問いですが…」
「ん?ああ。確かいわくつきの狐面だとか…」
噂とは川のようなものだ。
大きくなればなる程枝分かれをし、どれが本流にあたるか分からなくなる場合がある。
左近の言う噂も天守まで響く大きなものになり、尾鰭背鰭をそれはもう公家の女のように山盛り着飾っていた。
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