頂
□子猫とオオカミ
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クラースがその音に気がついたのは、分厚い魔導書一冊を読み終わった後だった。
ぱたん、と本の表紙を閉ざすと共に現実に意識を戻したクラースの耳に届いたのは、さあさあという耳鳴りに似た、それでいて不快ではない音。
窓辺に目を向ければ外は暗く翳っていて、もくもくと空を覆う雲から白い絹糸のような細い雨が地上へ優しく降り注いでいた。
本を読み終えた後特有の、ふわふわとどこかおぼつかない思考の中でクラースはふと町へと繰り出していった仲間達のことを思い出した。
確か昼過ぎまでは外は抜けるような晴天で、自分は読みたい本が溜まっていたから部屋に残ったが、他の年若い仲間達はじっとしているのがもったいないとばかりに部屋を飛び出していったのだ。
そして未だ誰一人として戻ってきていないのは、クラースが明かりも灯さず……正確には、明かりが必要だと気づくこともなく、読書に没頭し続けていたことからも明白だろう。
机の上に重なった本の山の上に読み終えた本を更に重ね、クラースはかしかしと頭をかいた。窓の外では、勢いこそ強くないものの途切れることなく雨が降り続いている。
さて、どうしたものかとクラースが考え始めた時、階下がにわかに騒がしくなった。
次いで、ばたばたと階段をのぼってくる複数の足音。
聞こえてくる声と足音の数に、クラースはやれやれと腰を上げると、部屋の隅に固めて置いておいた荷物袋に手を伸ばした。
ほどなくして、クラースの予想通りバタンッ! と騒々しい音を立てて扉が開き、全身ずぶ濡れになったクレスとチェスターが部屋の中へ駆け込んできた。
そんな二人に、クラースは荷物の中から取り出したタオルをそれぞれの顔に向かって投げ渡した。
「わぶっ」
「ちょ、旦那ひでぇ!」
「うるさい、それよりさっさと体を拭け。風邪ひくぞ」
クラースから放られたタオルを見事顔面で受け止めた二人はクラースに非難めいた声をあげる。それをさらりと聞き流して、クラースは二人の頭に手を置くとわしわしと乱暴にタオルで水気を拭き取った。
それに二人は悲鳴をあげて、クラースは悪戯の成功した子どものような笑みを浮かべてぱっと手を放した。
タオルの下から何をするんだ、と言いたげな視線を寄越してくるチェスターと、苦笑いをこぼすクレスにクラースはくくっと喉奥で笑いながら、着替えも取ってきてやろうかと踵を返す。
しかし、隣から聞こえてきたどたばたというやかましい音にクラースの足は止まった。
隣室からは更にガターン! と椅子か机の倒れるような音と、アーチェのものらしき甲高い叫び声が聞こえてくる。
もはや騒音と呼んで差し支えないそれらに、クラースは眉をひそめた。
「あいつら、一体何をやってるんだ?」
「それは、えぇっと……」
「だ、旦那の気にするようなことじゃねぇって!」
クラースの呟きに、二人は慌てて口を出す。そんな二人の様子に訝しげな顔をしながら、クラースはクレスとチェスターの方へ再び踵を返した。
「ど、どこに行くんですか? クラースさん」
「このままでは迷惑になるからな。少し注意しに」
「お、俺が行くから旦那はここにいろよ!」
「お前じゃ余計に騒ぎになりかねんだろうが」
先ほどからどこか挙動不審な二人を押しのけて、クラースは一度部屋の外に出る。
背後で二人が慌てふためく声が聞こえてきたが、気に留めることもなくクラースは女性陣の泊まる隣室の扉を叩いた。
「おーい、アーチェ、ミント、すず? どうしたんだ?」
声をかけてみるも、中からは相変わらずどたばたという足音と声しか聞こえない。
もしや誰かが怪我か病気でもしたのだろうか? にわかに不安になったクラースは、扉のノブを掴んだ。
「入るぞ?」
「あーっ待ってクラース明けちゃダメーッ!」
ガチャッ、とドアノブを回したとき、アーチェの悲鳴じみた静止の声があがった。その声の声量に、クラースはビタッと動きを止める。
その拍子に、手から離れたドアノブはギィ、と細く扉を開けて、その隙間から白い何かが廊下へと飛び出してきた。
「う、わっ?」
その白い何かが飛び出してきた勢いのままクラースの足元へとまとわりつく。それに思わず体勢を崩しかけて、クラースの足はたたらを踏んだ。
その際に白い何かを危うく踏みかけて、クラースは踏みつけてしまう前にと急いでその白い何かをひょいと抱き上げた。
ひくひく動く三角の耳。
ガラス玉のようなまあるい青い瞳。
丸っこくふにふにした足と、しゅっと伸びたしっぽ。
雨でびしょびしょに濡れそぼった体毛は白。ただし耳と手足としっぽ、それから顔の辺りは黒っぽいこげ茶の毛に覆われている。
抱き上げたクラースの片腕にすっぽりと納まってしまう小さな体躯をしたそれは、クラースを見上げると満足そうににゃおん、と鳴いた。
「……猫?」
生まれて一年経っていないであろう子猫が、ごろごろと喉を鳴らしながらクラースの胸に頭をすり寄せていた。
「あぁーっ、クラースずるい! あたしも抱っこしたいのにーっ」
いつの間にやら部屋から出てきていたアーチェが、うらやましそうにクラースへ抗議の声をあげる。他の面々もクラースと、クラースになついている様子の子猫を見て、驚きの表情を浮かべている。
クラースは腕の中でもぞもぞと動く子猫を抱えなおしながら、一つ、ため息をついた。
「……で? 一体どういう事なんだ、これは?」
◇◇◇
町に出かけていたクレス達は、突然降ってきた雨に急遽宿屋に戻ることにした。その途中で、木に登ったはいいが下りられなくなったのか、枝の上で雨に濡れながら、途方に暮れたように佇む子猫の姿を見つけた。
止む気配のない雨の中それを見捨てる……なんてことがこのお人好しの集団にできる訳もなく、自分達も雨に濡れながら子猫を助け、ひとまず宿屋へ連れてきた。
すると連れ帰った先の宿屋の主人が子猫の飼い主を知っていたらしく、雨が止むまで宿に置いていい、と許可が出た。
そこでクレス達は一度子猫を宿屋の主人に引き渡そうとした。が、元々人見知りが激しく、飼い主以外になつかないらしい子猫は、雨のそぼ降る屋外から暖かく危険の少ない屋内に入ったことでその性格を発現させ、暴れ出した。
飼い主が年若い女性である、ということで、興奮状態の子猫を女性陣の部屋で引き取ることにし、まずは落ち着かせようと部屋まで連れて来た。
けれど知らない人間に囲まれた子猫は落ち着くどころかますますヒートアップし、その小さい体で暴れに暴れた、結果。
「では、クラースさん。よろしくお願いします」
そっ、とすずから差し出されたタオルを、クラースは反射的に受け取った。そして他の仲間が自分を見てくる目に、クラースは全てを把握し、再度ため息をついた。
◇◇◇
椅子に座り、もくもくと本を読むクラースの足元に、ちょろちょろと子猫がまとわりつく。ズボンから出ている足首の辺りに、乾いてふわふわとした感触を取り戻した柔らかい猫毛が押しつけられる。
それを無視して本を読み進めていくクラースに、業を煮やしたのか子猫はよじよじとクラースの足に登り始めた。
クラースは本から目を離さないままに、片手で子猫を足から引きはがすと床に下ろしてやる。
そんなクラースの態度がどうにも気に入らない子猫は、クラースの向かいの空席の椅子に飛び乗ると、勢いをつけて机に飛び移った。
そうして、クラースの手元の本とクラースの視線の間に無理矢理体を割り込ませて、にゃあ、と不満を込めた鳴き声をあげた。
体を張ってクラースの興味をひこうとする子猫に、とうとう根負けしたのかクラースは本を閉じた。
「あぁもう……なんだ、何がしたいんだ?」
本を机の上に投げ出して、クラースは子猫に向かってそうぼやいた。対して、子猫はそんなことは知ったことかとばかりにクラースの手にぐいぐいと自分の頭をすりつけた。
自由気ままに振舞う子猫に、クラースは釈然としない顔つきのまま子猫の顎下を指先でくすぐってやる。
ごろごろ、と喉をならして子猫は気持ち良さそうに目を閉じる。そこから耳の裏、首裏、鼻の先と指を移動させていくと、一番気持ちいいところをかいてもらおうと子猫はクラースの手に体重を預けてくる。
その時に、つい、とクラースが手を引くと、コテン、と子猫は横に転がった。
一体何が起こったの? というようなきょとんとした顔をする子猫に、クラースは知らずくすり、と微笑みをこぼした。
「ずいぶん可愛がってんじゃねーか」
どこか不機嫌そうな声と共に、のしりと肩にかかった重量にその笑みはどこかにかき消えたが。
「……チェスター、重い」
自分の肩の上に頭を乗せてきたチェスターを、クラースは横目でじとりとにらみつける。あからさまに邪魔だ、と訴えかけるクラースの視線に、チェスターは悪びれた様子もなくクラースの肩にぐり、と顎先をこすりつけた。
顎の骨が肩の骨に食い込んで、地味に痛い。
何なんだ、一体……と半ば呆れが入りつつも、問いかけるような視線を送ると、チェスターはふてくされたような顔をして、口を開いた。
「……にゃあ」
端的、かつ、簡潔なその一言に、クラースは面食らったような顔をして、そして、くくく、と密やかに肩を揺らした。
「なんだ、猫相手に妬いたのか?」
「悪いかよ」
からかうような口調のクラースに、チェスターはムスッとした声音を隠しもせずに言う。
てっきり噛みついてくるかと思っていたクラースは、予想外のチェスターの反応に目を丸くしてチェスターの方を向いた。
クラースを見つめるチェスターの瞳はひどく真剣で、その瞳に宿る光をクラースはどこかで見覚えがある気がした。
「旦那が思ってるより、俺は心も広くねぇし……」
する、とチェスターの手がクラースの頬に伸びる。そろりと頬を撫でる手の平に、クラースは肩を竦ませた。
気づけば吐息も触れ合うような、そんな居地にあるチェスターの顔をただ見つめるクラースに、チェスターはにやり、と人の悪い笑みを浮かべた。
「獲物の隙を見逃すほど、甘くもないんでね」
そう、正しく罠にかかった獲物を見る狩人の目で、チェスターは薄く開いたクラースの唇に己の唇を寄せた。
――が、二人の唇同士が重なり合うより早く、二人の間に白が閃いた。
「フーッ!」
「いってぇ!」
ばりっ、と音を立てて、子猫の鋭い爪がチェスターの頬に見事な三本線を刻み込んだ。
まるでクラースを守るように立ちはだかる子猫の姿に、クラースはハッと我に返ると子猫を抱きしめ、そそくさとチェスターから距離を取った。
クラースの腕の中で、誇らしげににゃあ、と鳴いてこちらを見やる子猫にチェスターは恨めしげな視線を向けて、ぼそっと、「雨が止んだら覚えてろよ……」と呟いた。
それに身の危険を感じたクラースはぎゅうと子猫を抱く腕に力を込めて、今日一日は子猫を手放すまい、と固く決意したのだった。
(2011/8/27)