*H-book*

□ヒメゴコロ
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なんとなくではあるが、モヤモヤの原因は分かっていた。ここ数日、ある者が一切屋敷に、幸鷹の前に姿を現していない。それまでは、毎日のようにやってきては人のことをからかっていた……風のような、男。いつも風のように颯爽とやってきては、人の心の中に走り込んで、かき乱して、また颯爽と消えていく。そう、風のような男。
いるといるで鬱陶しいと思うのに、こうも来なくなってしまっては…少し寂しくも感じてしまう。それほどまでに、その男は幸鷹の心に入り込んでいた。


格子にもたれ掛かり、心を占めるモヤモヤにどうしても出てしまう、溜息。
「…いつもは、呼ばなくても来るくせに…」
そして、独り言。胸のモヤモヤから意識を逸らそうと手を伸ばした書物も、結局モヤモヤを増やすばかり。いつもは心地よく感じる静かな部屋も、今は静かすぎてかえって落ち着かない…。自分の心境、現状に呆れまた溜息。
「………翡翠」
そっと、恋しい名を口にする。その声が、まるで寂しくて泣きだそうな子供のように聞こえて…慌てて口もとを抑えた。そして周りを見る。当然、周りに人などいない。そうさせたのは、他ならぬ自分。
聞かれなかった安堵と、その声の恥ずかしさに、思わす顔が紅くなる。
「…私としたことが…」
たった数日、会えなかっただけでこれの状態。恥ずかしく、情けなく感じてくる。
翡翠がいるのが、いつの間にか当たり前になっていた。いなくても、当たり前の存在のはずなのに。寧ろ、自分と彼は敵対するべき存在。国を治める者と、乱す者。その海賊とは思えぬ風貌に、その物腰お柔らかさに、どうしても調子を崩してしまう。
与えられる温もりが、囁かれる言葉が、あまりにも優しすぎて…拒絶を掻き消してしまう…。信頼していいのかさえ、怪しいというのに…。
口元を覆っていた手を離し、また深い溜息をつく。
「翡翠…」
自然に零れたその名を、小さく心の中で何度も呟いた。
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