Short

□名前のない関係
1ページ/1ページ





この男と随分長いこと寄り添って人生を歩んできたが、愛情があるのかと聞かれたら、わたしは言葉を濁すだろう。おそらくこの男もそうだ。わたしたちの間にこれと言った感情が芽生えることはなく、わたしたちが愛の言葉を囁き合ったことなど、多分一度もない。……確信を持てないのは、わたしは時々気分が高ぶり、半狂乱になることがあり、さらにその時の事をほとんど覚えていないから、自信をもって否定しきる事ができないからである。
わたしは精神異常者だ。と、自覚している。
自覚している時点で、異常者ではないだろう、と言う人がいるが、わたしにはその理論が当てはまらない。自覚しながらも、確実に頭がおかしくなっているのだ。だから、

「手首を切りたくなりますよね」
「うん、ほんとに」

手首に傷を作る。
そう、わたしたちはリストカット常習犯なのだ。
と言っても、傷跡を残すのはわたしだけだ。彼は自らの腕を汚すようなことはしない。彼はいつもわたしに傷を作るのだ。だから、彼の腕は傷ひとつない美しい状態を保っている。それに比べて、わたしの腕は傷だらけでボロボロだ。だからといって、この傷を美しいと思うことはあっても、汚いと思ったことは一度もない。わたしは腕に引かれる無数の赤が綺麗で好きだ。彼も、わたしの傷を芸術かのように見つめる節があるので、きっと美しいと思っていることだろう。

「それにしても、昨日は随分豪快にやったんですね。しかも消毒もしていないようですし」
「まぁ、ね。だって、それは柳生がやればいいで……ぁっ、…!」

ベロリと傷口を舐めるこの男の名前は柳生比呂士と言う。学生時代から紳士と言う通り名で呼ばれることが多々あったそうだが、わたしから見たらただの変態だ。この男の正体が誰にもばれていなかったとしたら、彼は相当な食わせ者だ。さながらペテン師といったところだろうか。

「いま、余計な事を考えていたでしょう」
「うん。柳生はペテン師だって思ってた」
「くだらない」

お仕置きですね、と言って、柳生はわたしの腕に残る、まだ塞がりきっていない赤い線に歯をたてる。痛い。

「いっ……あっ、…ぃた…いよ、…」
「嫌ですか?」

嫌、ではない。むしろキモチイイ。
だからわたしは首を横に振る。すると柳生は満足そうに口許だけで笑うのだ。
眼鏡の奥に見え隠れする柳生の眼光は鋭い。わたしを射抜かんとするその瞳は、激情を秘めている気がする。かれのしゃべり方は柔らかいが、吐き出される言葉の抑揚や響きは鋭利な刃物だ。冷たい。だから、わたしは長いことこの男のそばに居ることができた。わたしは優しさなんて求めていない。

「ゃだ、やぎゅ……、そんなに…」

優しさは求めていないが、快楽は求めている。わたしは柳生に傷口を攻め立てられるこの瞬間がこの上なく好きだ。だからわたしは腕を切るし、消毒をしない。

「わかってますか?これは消毒ですよ?」
「んぅ……、」
「ずるいじゃないですか。ひとりだけ良い思いして」

わたしの腕を握る柳生の力が強くなった。彼は学生時代テニスプレーヤーだったらしく、握力が凄く強い。だから全力で握られたら、運動を避けて生きてきたわたしの細腕は軋むのだ。柳生が立てた爪によってできた鬱血痕に彩られた手首が生々しい。

「わたしも、気持ちよくさせてくださいよ、くろこさん」
「……ぁ、い゛…んん…」

声になり損なったくぐもった音が喉から溢れ出る。それと同時に、腕からも鮮血が滲んでくるのだ。ああ、今日はカッターか。

「柳生…キモチイの?」
「ええ、すごく。あなたの血を見る瞬間ほど、興奮を覚える時はありません」
「変態だね」
「貴女に言われたくありませんね」

心外です。なんて言って見せる彼の瞳は相変わらず氷のようだ。
そう、わたしが柳生を見つめる目も似たようなものだ。無感情をそのまま瞳に写して柳生に向けているだけ。だから、わたしたちの間に愛は生まれないのだ。
わたしたちがお互いをこうして求め合う(この表現は果たして正しいのだろうか)のは、お互いの欲を満たすためだけである。わたしは根っからのマゾヒストで、自分に刻まれる様々な色を見るのが大好きで、それを誰かに抉られるのが至福である。
対する柳生は正真正銘のサディストで、傷付けるのも抉るのも、苦しませるのも好きだと豪語している。
つまり、利害の一致だ。
他にお互いの欲を満たす人物が見つからなかったから、わたしたちはこうして毎日、逢瀬のようにも見える対面を続けてきたのだ。
この関係は……そうだな、まるで

「……セフレ」
「はぁ?」
「セフレみたい。わたしたち」

きょとんとする柳生が、数拍おいてから納得したように頷く。

「そうかもしれませんね。ならば、私たちのこの行為は、セックスというわけですか」
「そうだね、セックスだ」

性器を使わない、セックス。
性的欲情のない、セックス。

「だからかなあ」
「何ですか?」
「きもちいの。わたし、柳生と出会ってから溜まらない」
「奇遇ですね、私もですよ」

上品に笑う彼は酷く美しい。その美しい相貌から「オナニーとは疎遠になりました」なんて、下品な言葉が発せられるのだから困ったものだ。

「柳生、やっぱ変態だね。彼女できないよ」
「貴女も十分変態ですよ。結婚なんてできないでしょうね」
「そうかもねぇ」
「そんな傷だらけの腕では、健常者は誰も欲しがりません」

もっともだ。手を天井に翳して見つめるが……うん、やはりこの腕は正常な人間からみたら異形なのかもしれない。

「てことは、健常者じゃなければいいのかな」
「そうなりますね」
「うん、柳生だったらもらってくれる?」

冗談半分で聞いてみた。

「嫌ですよ、こんな彼女いりません」

おや、あっさり断られてしまった。仲間だと思っていたのだが、やはり柳生くんも健常者な女の人が良いのだろうか。

「酷いなあ」
「彼女にはいりません。だけど、」

嫁なら良いかもしれません。

「…ぇ」
「わたしの性癖を覚えていますか?」
「監禁、緊縛、…それから傷付けること」
「はい、良くできました。最初の二つ、彼女では出来ません」
「閉じ込めたら犯罪だしね」
「でしょう?」
「で?」
「結婚すれば一緒に住むわけですから可能です。しかも、貴女は絶対に嫌がりませんしね」

ニヤリと笑ってわたしを押し倒す柳生は、いつもより妖艶だ。
柳生は、その表情のまま、首元に唇を寄せる。だが、落とすのは口付けではない。荒々しい噛み跡だ。

「まぁ、愛なんて要らないと、お互いに思っていることが前提ですがね」

なんて、文字通り愛のない冷ややかな言葉をいただいてしまった。だが、わたしはそれに賛同するだろう。
だって、わたしたちの間に愛なんて存在し得ないのだから。

「そんな余計なもの、いらないって…わたし前に言ったよね?」
「ふふ、良い子だ」

そこから、わたしたちは服を脱ぐのだが、行われるのは、やはり
性器を使わないセックスなのだ。
体中を赤が彩るセックスなのだ。

わたしたちの前に、もはや男女の性など意味がないのだ。
だから、わたしたちの関係にはいつまでたっても、名前がつくことはないだろう。




_




[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ