クロネコ喫茶店
□迷う
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午前三時、目を覚ました。
普段ならあと五時間は眠るところなのだが、何を思ったのか。ベットをほったらかして、クローゼットに向かう。
このとき、俺は寝ぼけていた。完全に脳は眠りこけっていたし、瞼なんて中途半端に開いているだけで、瞬く間に眠ってしまいそうだった。
だから俺は、太陽が昇るよりも先に外にいたりなんかしたんだ。
じゃなかったら、誰かに催眠術をかけられたのかもしれない。
いずれにしても、あれは夢か幻のどちらかだったんだ。
「なにしてんの、俺」
三月上旬の明け方、気が付くと晃はブランコの上に座っていた。辺りをみわたすと、此処が何処であるか分かった。毎度の事ながら、早朝の匂いが漂っている此処は、昔よく遊んだ近所の公園。
家を出たときの記憶がない。いつものアレがまた発動したのだろう。
その証拠に、寝巻きのスウェットと上に羽織っただけのジャンバー。それに加えて、足元は靴下に健康サンダルだ。
我に返った瞬間、堪らず寒気が襲う。
前回はこれに、ジャンバー無しだったのだからまだましというものか。
俺は立ち上がって、家に帰ることにした。
当たり前だ。
園内の時計は、三時。その時計が、只今起動中なのかは定かではないものの、確かに動いてはいる。更に、何気なく手を入れたジャンバーのポケットに、喜ばしくも携帯が入っていて、取り出して液晶画面を見ると、pm:4と掲示されていた。
晃は目を円くした。
こんな時間に、朝靄が立ち込める公園で十代半ばの男が、寝巻き姿で呆然と突っ立っていたら、間違いなく白い目で見られてしまう。それよりも先に凍えててしまう。
そんなのは御免なので、足早に垣根を貫けて晃は公園を後にした。
両の手をすり合わせ、そこにはぁーっと息を吐きかける。
夢遊病。とはよく言ったもので、人が眠っている間勝手に体が、というやつだ。
考えてみれば、当事者の俺でも鳥肌が立つ。
かといって、十七にもなった男がこんな情けない話を他人や身内に、相談できるわけもなく、発症発覚時から一ヶ月。
まだ、誰にも話せずにいた。
そりゃあ、いつかは打ち明けようと思ってはいる。
その覚悟だって、ある、はずだ。
それでも、俺は怖かった。
公園を出て晃は、通ってきたであろう道路を白線に足をのせ、つたう。
この歳になって、それを平気でしでかしてしまう俺は、未だ寝ぼけている事をなんとなく自負する。
両の腕を大きく広げて、晃は薄く苦笑った。
彼には三つ年上の兄が一人いた。
その兄は今でも健在だ。
兄、brother、長男。
晃にとって、兄という存在は定規のような存在だ。
小学生の頃、外を駆けずり回る俺とは逆に、兄は勉強ばかりしていた。だからといって、融通の利かない頑固な性格、というわけでもなく。裏があったり陰険であるなんてこともなかった。
誰にでも優しく、気が利いて頭がいい。
優等生で人気者。
そんなキラキラと輝く二つ名が、時を経ても尚瞬くのは何故だろう。
あの男が笑っていられるのは、一体――――。
彼がものさしだと言うのならば、俺は横に並べられ図られる存在。
何度も比べられて、分かりきっている大きな差を、あらためて自覚させられて。
挙句、批判と重圧を投げつけられる。
そんなの、嫌だ。
だから俺は外にいた。
「カゾク」という、文字の付いた札をぶら下げている、冷えきったあの家にだけは。
だけど、今でもあそこに留まっているは、俺が彼らを手放せないからだ。
あの人たちに捨てられるのが怖いくせに、自ら手を離せない。
たった独り。そんなの、―――――もう嫌なのに。
「今時の男は可笑しな奴等ばかりじゃのぉ」
傷心する晃に、背後から唐突にも声が振り落された。
――――見られたっ!?
驚きと、羞恥と焦りがいっぺんにやってくるなんて、いったい誰が予測できただろう。
途端、振り返る。
しかし、そこには誰もいなかった。いや、「誰か」ではなく「何か」が少し離れた場所にいたのである。
それは、いつの間にか濃くなっていた朝靄にもまれて、屡(しばしば)見え隠れしているがおそらく、いや、確かに、このシルエットは間違いなく、猫のものだ。
いやいや、猫など今は関係ない。何故なら、聞こえたのは「人語」であって「人外語」ではないからだ。
獣、基(もとい)猫が人語を話すわけは、――――。
「おい、そこの。何をしておるのだ」
無きにしも非ず。
いつのまにか、人外が足元へすり寄って来ていた。
「気のせい、気のせい。うん、何も聞こえない」
いやいやどうして、間違いなく猫は今自身に声をかけてきている。
それを、無かった事にしようと無理矢理に自己完結したのは、耳をふさぐ井上晃、その人であった。
「おやおや。よく見りゃ主、童じゃったか。なるほど、王(ろい)と大して変わらんなぁ」
何故だか猫からは、酒の匂いがふんだんに香ってくる。
――――まさかこいつ、飲んだくれか?
口の動きと聞こえてくるセリフが、一向に噛み合っていないものだから、何処かで誰かがアテレコでもしているのかと辺りを見渡すが、これといってそのような人物は見当たらない。
それだけで信じてしまうのは、少々無用心だが誰が攻めてくるでもあるまい。
とりあえず、声主は猫だったのである。
訝しげに猫のほうを、晃はそっと覗き見る。
先ほどは自分のことで精一杯だったが、改めてこの奇怪な獣を視界に納めると、驚く。
この驚きは、先の驚きとは別のものでどちらかというと、奇妙に思ったのだ。
なにしろ猫の尻尾は、先が二つに分かれてあたかも二本の尻尾が生えているようなのだ。それだけではない。
この二股猫は、俺の足元にいるくせにはっきりと毛並みの色が伺えない。いくら朝霧が濃くても、俺のつま先は見えているし靴下の色だって目に見えてわかる。
なのに、そこをうろつく猫はシルエットと声、それに口元しか見えないのだ。
――――何故だ?
「さっきっから何を黙っておる。折角、この老いぼれが迎えに来てやったというに」
「迎えに来た?」
きずくと猫は、こちらを凝視していた。そして合わない吹き替えを始める。
「そうだ。散々探し回って見つけたと思えば、まさかこんな小童だったなんてな。まあ良い。さっさと王の所へ届けねばな。今夜は、飲んだくれて気持ちよく床に就こうと思っていたのにのぉ」
ぶつぶつ卑屈をこきながら、黒猫は道路を横断して向かいの茂みに寄り添ったようだった
てっきり何処かに連れて行かれるのかと晃は覚悟を決めていたのだが、どうやら思い過しのようだ。
足音のしない猫のシルエットが、此方を振り向いたようで霧が晴れつつあることを知る。
「明日、迎えにいく。準備はしておけよ」
その言葉を聞いたと同時に朝日が朝霧を橙に染める。その瞬間、微かに茂みへと消え入る不敵な笑みを眼にした気がした。