a short story
□And, she became a memory loss.
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散乱する教科書。交番につながったまま、床に伏せられた受話器。
「シン、逃げて!」
「バカ言うな!」
くっくっくっと、押し殺したような声にシンによく似た顔をした男がシンの目の前に対峙していた。
「放して!」
「おっと、お嬢ちゃんおとなしくしてろよ」
あの男の角張った手に握られているナイフがマイの白い首筋に当たっていた。
「久しぶりだなァ、お前が大事なものを壊してやりにきたんだ」
その言葉を含め、シンにとってその男のすべてが忌々しかった。
昔から男は母親と男の間に生まれた、シンに固執していた。シンが幼い頃に、男はとち狂ったように優しかった母親に傷を負わせ、姿を消したのだ。そして残された母子に配偶者が人を殺しという、地獄の日々を与えた。
「…お前さえいなければ」
優しい母親は好奇の目に晒されて体を壊し、幼かったシン自身も泥水を飲んで生きたのだ。
男は捕まり、刑務所暮らしをしていると知っていたが刑を追え、こちらに出てきているなんて少しも想像出来なかった。
「この国も甘いよなァ!俺にも自由がもらえるんだからよぉ!」
「うるさい!」
シンの怒鳴り声に一瞬、男は静かになるとにたにたと薄気味悪い笑みを浮かべた。
「ずっと昔から俺は無を抱えて生きてきたが、人を傷つけるたびに感じる快感はとてもよかったよ。お前も俺の血を引いてるんだ、……一人より、二人の方が楽しいだろう?お前も、この女をヤッちゃえば楽しいこっちに来れるんだぞ?」
「お前!!!」
首にうっすらと赤い線ができていく。
男の挑発と行動に若い朱の瞳の奥が憎悪で埋め尽くされる。
精神的、身体的に成長しようともシンにはどうして母がこの男を愛していたのかが未だに理解できないでいた。こんな、人の痛みを吸って生きている男のように。
「すみませーん、警察のものですがー!」
玄関の向こうから、聞こえる声と複数の足跡。
「……はやいな」
「きゃっ…!」
「マイ!」
男はマイを床に突き飛ばし、窓に手をかける。派手な音とともにマイは床に頭を打ち、ぐったりとしていた。
「一ヶ月後、俺はお前を迎えに来る」
「くそっ、待て………!」
窓から出ていく男にシンは手を伸ばす。
ゆっくりと落ちていく男。シンが床を走る音。コンマ数秒の差でシンの手は空をつかんだ。
下を見ると、男はすでにいなかった。
「う……」
マイの呻き声にシンは駆け寄る。
「マイ」
「……」
「マイ?」
「……」
「マイ!」
「俺のせいでごめんな……」
And, she became a memory loss.