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□幸福な食卓を君と彩る。
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 不動さんの作るお味噌汁はいわゆる「おふくろの味」だと思う。鼻孔をくすぐる削り鰹の洗練された香りと、口に含んだ瞬間広がる豊潤な昆布の味わい。その絶妙なハーモニーはたぶん、私には一生かかっても出せない何かがある。とくに深酒した日なんかに叩き起こされて飲むそれはまさに「嫁にもらって下さい」と言わんばかりの出来映えだ。親元を離れて久しい私にとって、それは懐かしくもどこか安心する母の味に近かった。

「晩飯何がいい」
「んー…じゃあお味噌汁」
「主菜を言え主菜を」
「じゃあお肉系をお願いします」
「りょーかい。ほらよ、弁当」
「あ、どうも」
「汁物入ってるから傾けんなよ」
「無茶言わないで下さい」

 手早くファンデーションを伸ばしながら、慌ただしい朝を私は過ごす。いつものことだ。夢だった中学校教師になって2年、初めて担任を持てた。仕事は倍になったけど、毎日は充実してる。もちろんその充実は健康あっての物種だが、その点も心配はいらない。なんてったって私には、朝昼晩と三食「おふくろの味」がついているから。

「買い物、何か買ってきた方がいいものあるか」
「あ、シャンプーが切れちゃったんでそれお願いします」
「いつものな、りょーかい」

 私以上にテキパキと家事をこなす彼、不動明王はいわゆるプーでヒモなわけだが、別にこれといった文句はない。確かに教師2年目の微々たる給料と、彼の日雇いバイトの雀の涙な給料だけで毎月暮らしていくのはたぶん、いや結構無理があるけど。でも、たぶんきっと今の私は不動さんが居ないと、それこそ生活がままならなくなるから。

「…あのよ、」
「はい?」
「今日、早く帰って来い。話してぇことあるから。」
「はぁ」

 化粧を終えて身支度を整えると、そのまま玄関に置かれたゴミ袋を手に扉を開ける。陽光を全身に浴びながら彼を振り返ると、彼はなんだか寂しそうな、それでいて穏やかな表情をしていて。嫌な予感、とでも言うのだろうか。胸がざわついて何かを言わずにはいられなかった。

「不動さん」
「あ?なんだよ、急がないと遅刻すんぞ」
「…私は不動さんがいいんです。」
「は?何の話…」
「いってきます」
「あ、ちょ、おい!」



 音無はオレの言わんとしていることを敏感に感じ取ったのか、先手を打ってきた。相変わらず空気を読むのが上手いやつだと思う。
 だけどもう、限界が来てるのだとオレは自覚している。もともとここは音無の部屋で、転がり込んだオレはプーでヒモな料理が上手いだけのヘタレだ。甲斐性もない。稼ぎもない。人生負け組で、この上なく終わってる。
 言われちゃったんだよね。春奈を想うなら離れてくれって、アイツを一番に想う「お兄ちゃん」に。
 だから最後くらいアイツの好きなもの作って気持ち良く別れたかった。笑って離れたかった。…アイツの明るい未来に影をさすのは、寄生するのは、もう充分だ。

「…洗い物片付けねぇとな」

 乾いた笑いとともに台所へ向かい、行儀良く並べられたつがいの茶碗を目にして胸が痛くなる。いつかアイツは、オレを忘れて今度は誰かのために手料理を振る舞うのだろうか。上手いとは言えない手つきで、危なっかしくも一生懸命。(…やめよう。虚しい。)
 洗い物を手早く済ませてから洗濯物を干し、部屋中をくまなく掃除する。自分で言うのもなんだが、オレは手際が良い。まるで主夫の鏡だ。
 笑えない冗談はそのままに、オレは財布と原チャリの鍵だけ持ってお馴染みのスーパーへと向かった。
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