text

□アズカバンのともし火
1ページ/3ページ




 目を開けたのは、ずいぶん久しぶりに人の話し声が聞こえてきたからである。
 冷たくよどんだ薄闇の中に、頼りなくも小さく揺らめくともし火が近づいてきた。
 どうやら外来の客がきているらしい。

 こんなところに……一体何の用だろう。

 そう思っても、絶望がひたす檻の中で永いあいだ体と精神とをむしばまれてきた囚人たちには、体を動かして顔を上げる力もわかず、わずかに生気を残した数少ない者たちが、やっとまぶたを押し上げて少し目を開けることができただけだった。
 アズカバンの看守に連れられてきた二人の客のうち、先頭に立つ者はかかげた杖先に明かりを点し、おびえた目で首をめぐらせて熱心にあたりを見、ひとつひとつの独房を鉄格子ごしにのぞいていた。
 大方の囚人の髪が伸び、泥のような眠りをむさぼっているか、震えてうずくまっているか、意識を手放して倒れているかそれぞれで、ほこりがうず高く積みあがった灰色の床に顔を伏せても咳き込まずにいる者、手をつけずにいた食事がひからびて、手足を投げ出して硬いベッドに横になっている者がいれば、収容されたばかりの者のそばには吸魂鬼がついていて低いうめき声がこだましており、夜更けにも関わらず安らかな寝息のひとつも聞こえなかった。
 心の底をさらうようなすすり泣きが、途絶えては起こり、アズカバンの外からやってきた人たちの胸に悲しみをしのびこませた。 

 シリウスは、独房に置かれたベッドに背を持たせかけ、うなだれて浅い眠りをただよっていた。
 ひっそりした話し声と靴音がしだいに大きくなってくる。
「ここがシリウス・ブラックの牢です」
 シリウスの独房の前にさしかかって、看守が金属をこすったような声を発した。ファッジがうなずき、連れの者も、濃い闇のたちこめる独房の中におずおずと視線をやり、動かない〈頭の狂った大量殺人者〉の姿をみとめた。シリウスは視察として訪れる魔法大臣の存在を思い出したが、じっとしていた。
「ブラックは……」
「毎日の食事はとっているようです」
 ふむ、とファッジが相づちを打ったとき、連れの者が驚いて声をあげた。シリウスがおもむろに頭を上げ、こちらへ目を向けたからである。
 シリウスが見つめる先には、ファッジのカバンから突き出た新聞があった。

「これが読みたいのかね?」
 シリウスがかすかに首をたてに振ったのを見てとり、ファッジは新聞を二つ折りにして、鉄格子のすきまから独房の中へ入れてやった。看守は軽く片方の眉を上げ、連れのものがとがめるような声を出したが、ファッジは、どんな者であっても見聞を広めるのは良いことだと返した。さらに廊下の壁の壊れかかったランプを杖の一振りで直し、独房の中の闇もいくぶん掃われた。
 シリウスの中で形になるまえに消えたのは、そのむかし感謝と呼んだ思いだった。
 どうやって口を動かせばほんの少し生じたものが伝わるか、その思いを表す言葉がどんな音なのかシリウスには霞がかかったようにつかめなかった。
大儀そうに手を伸ばして新聞をつかみとった後、ゆっくりとファッジを見上げた目からは、一瞬だけ、暗い憤怒や悔恨がそがれたように見えた。

 気にかかっていたのは、ヴォルデモートにジェームズとリリーが殺された今、一人で生き残ったハリーのことだ。
看守が気まぐれに読み終わった日刊預言者新聞を払い下げてくれるのがアズカバンに収容されてからシリウスにとっての唯一の外界への窓となっていた。シリウスがちゃんと正気を保ち、新聞に目を通すのを面白がっていた看守だが、吸魂鬼の干渉を避けたいシリウスが極力犬に変身するようになってからは新聞の差し入れが途絶えていた。
新聞の中には2年前からたびたびハリーに関する記事が載った。ゴシップや噂話のたぐいまで扱う信憑性に欠けた質の良いとはいえない新聞だが、人々の関心を惹くのならどんな他愛無い話題まで取り上げることは今のシリウスにとってありがたかった。なにしろヴォルデモートを退けたただ一人の少年に、魔法界の人々の興味は尽きなかった。しわになったり、コーヒーのしみが落ちたりする紙面に目を凝らすと、ハリーは2年前にホグワーツに入学し、ヴォルデモートが関わるさまざまな事件に巻き込まれ、しきりに騒ぎたてられており、無事に生きているらしいことが分かった。




次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ