■ ノベルス ■

□きつね火の夜に
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第一章
 
 秀はその夜、いつものように机に向かってデッサンをしていました。
 学校の宿題を済ませてから、自分の部屋に閉じこもって筆を染めるのです。秀にとっては何もかもが絵の対象になります。窓から見える風景を描くこともありますし、鉛筆や消しゴムだって立派な材料です。目に付くものを気まぐれにデッサンしていくという癖は、秀の画力を日に日に上げていくのでした。
 秀の父はそこらでは名の知れた画家でしたし、秀は物心ついた時には絵筆を握っていましたので、その上達ぶりには目を見張るものがありました。
「ううん、上手くいかないな」
 秀は絵筆を脇に置いて低く唸りました。そして腕組みをして考え込んでしまいました。
 秀の目の先には、わざと傾けて固定してある画板があって、描きかけの絵が留められています。そのさらに奥の白っぽい机の上には、赤く美しく咲いた一輪の薔薇がガラスでできた花瓶に生けてあります。
 その絵と薔薇の花を少し位置を変えて見ますと、何ともよく似ています。とても鉛筆の黒と、画用紙の余白の白だけで出来ているとは思えません。花びら一枚一枚の瑞々しい生命感、茎から無数に生えている鋭利な刺といいそっくりです。どうにかすると、仄かな甘い匂いさえ漂ってきそうです。
 では、秀は何が気に入らないのでしょう。まだ、何かを考え込んでいます。
 秀は急に椅子から立ち上がり、その辺に散らばっていた道具を片付け始めました。それらをきちんと戸棚に仕舞い込みますと、部屋の灯りを消してベッドに横になってしまいました。どうやらいい案が浮かばなくて疲れてしまったのでしょう。
 灯りを消すと辺りは真っ暗です。月も出ていません。
 開けっ放しになっている窓からは、しんみりとした鈴虫たちの音色が入ってきます。もう、お盆も終っていよいよ秋らしくなってきましたが、今日は窓を開けていても蒸すのです。
 秀はしばらく目をつむって、眠りの波がやってくるのを待ちましたが、一向に眠たくならないようです。それどころか目は爛々と輝き、頭はすっかり冴えてしまっています。秀が意地でも寝ようとした時です。
 ちりーん、ちりーん…。
 どこからか、透き通った鐘の音が聞こえてきました。途端に虫の音が止んで、生温かい風がカーテンを揺らして入ってきました。
 秀はガバッと起き上がって耳を澄ませました。初め自転車のベルの音か、お隣の家の風鈴の音かと思いましたが違うようでした。
 どうやら一階の廊下を突っ切った客間の辺りから聞こえてくるようです。秀は思い切って音のする方に向かいました。足取りは、自然と泥棒のように忍び足になっていきます。
 階段を下りて、一階の両親の寝室の前を通りますと、中から規則正しい寝息が聞こえました。幸か不幸か、二人はよく眠っているようでした。
 薄暗がりのせいで、自分の家が全く別の場所に思えてしまいますから不思議です。
 灯りをつけると“何か”に自分の存在を知らせてしまう、と秀は思ったのでしょう。慎重に、手探りで進んでいきます。
 そして、ようやく客間に着きました。しかし、音は客間よりも遠くから聞こえてくるようでした。
 客間は表通りに面していますから、窓からコンクリートの塀越しに道路が見渡せるようになっています。秀がもう一度耳を澄ましてみましたが、やはり音は家の外から聞こえてきます。
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