■ ノベルス ■

□とびらの向こう
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鍵はいつ始まるのか。
鍵はきっと、開けられると終わり、閉められると始まる。
では、とびらは?

   1.遭遇
 目の前で男の人がとびらの前に立っていた。その人は何かやっていたが、そのうちとびらから離れていった。男の人がどこかへ行ってしまってから近くに寄って扉を見てみた。とびらは鉄でできていて所々が錆びで赤茶け、顔と同じ高さに四角い小さな曇りガラスが嵌められ、ドアノブのすぐ右端の蝶番に円柱状の錠が掛けられていた。錠はダイヤル式のもので、4つのダイヤルを回して、ふってある0から9までの数を四つとも当てると開く仕掛けになっていた。
 目は、鍵に吸い込まれるように釘付けになった。何故だろう、何故かはよく分からないが、手で持つとしっくり馴染みそうな寸胴の大きさとか、何度も回されてメッキが剥がれて読み取りにくくなっているダイヤルなどを覆う不思議な雰囲気に飲まれたとでも言っておこう。
 ふと気がつくと、周りには誰もいなくなっていた。さっきまで電柱の横で世間話をしていたオバサンたちも、店の前で掃き掃除をしていた本屋のオジサンもどこかに引っ込んでしまっている。そうなると鍵が開けたくなっていた。上手く説明が出来ないが、こういうのを世間一般では衝動と呼ぶのかもしれない。
 遠くでカラス烏が鳴いた。
「ま、開くわけないけど」
 自分に言い訳を言って、左手で円形の空気を包み込み、ずんぐりとした大きさの錠を手に取ってみた。途端、指先からぞぞっと寒気が走った。それはまるで、金属のスプーンを奥歯で思い切り噛んだ時のようでいて、咄嗟に指を離してしまうほどの痛みがあった。それでも少し時間を置いてもう一度、確かめるようにして手に取るともうそれはやってこなかった。静電気の一種だったのだろうか。ドアノブなどでよく顔を合わせることがあったが、錠前でも出会えるとは知らなかった。押しても引いても、鍵は口を閉じたままだった。当たり前なのだが。気を取り直して鍵を眺めてみると、ダイヤルが『2669』で止まっていることがまず目に入っ
た。
「ヒント、なのかな」
 掛けた本人はどうしたかったのだろうか。またすぐに来るからと数ダイヤルいじくったのか、当分来ないからと用心し、全く違った番号にして帰ってしまったのか。後者が一番やっかいだが、とりあえず右の親指をダイヤルに添えてみることにする。
『2669』
 とにかくこの数字を軸にしていけばいい。事件発生現場と違って、それさえ覚えておけばいくらいじっても何とかなる。そんな気がした。
 本屋のシャッターがミシリと鳴った。
 上から一番目のダイヤルを左に1回まわす。開かない。今度は三番目をぐるっと右に5回。開かない。次は思い切って一番目と二番目を右に7回ルーレット。この間、一度もダイヤルは元に戻していない。お分かりだろうか。今ダイヤルは『6919』を示している。半円のリングと寸胴の本体を指で支えながら手前に引いてみた。
 かなり力を入れて引っ張ってみたものの、リングは深く根を張っていて鍵はびくともせず、代わりに、引いた人さし指は反動で軽く肉が骨に食い込んで痛み、親指でさすってほぐしてやる羽目に合った。その後もダイヤルが外れるんじゃないかというほど回し続けたが、錠はうんともすんとも言ってくれない。いい加減、解けない気がしてきた。回しても回しても鍵が開く兆しはなく、果てのない無限回廊に迷い込んだように気持ちはざわついた。そして腹も減ってきた。空を見上げるとだいぶ時間が経ったようで、懐かしい色の夕日が流れる雲を染め上げていく。
 指でころころ転がしているうちに、カチリとでも音が鳴って半円のリングが外れるだろうと思っていたが、やはり甘かったようだ。
「・・・帰ろ」
 鍵のダイヤルを元の番号に戻して手を放す。
 とびらの向こうに何があるのか。今のところは全く分からない。予想を大きく上回る"何か"があるという期待を背負って、鍵はまた眠りについた。握っていた手からは苦くて渋い臭いがしたので、生理的にそれをズボンで拭った。
 途端に、夏のひぐらしにも匹敵する物哀しいメロディが聞こえてきた。ソー♯ソーソーの単調な音階。
「ラッパだ」
 音のする方を向くと、白髪のおじいさんの牽く豆腐屋台がゆっくりやってくるのが見えた。それは黄金色した夕日を浴び、高級な影絵のように一層目に焼き付いた。
 ポケットに手をつっこんで屋台の横を通り過ぎたあと、何故か、いま振り返ったら屋台もおじいさんも消えているだろうと確信した。音がまだ尾を曳いていても、その気持ちは変わらなかった。
 はやばやと灯った一番星を見上げたら、それは更強くなっていった。
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