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□325の4
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325の4

                                     レオ


「うわっ」

男は頭から盛大にこけた。
「痛たたた」
男が痛みの淵から目を覚ますと、足元には空き缶が転がっていた。
男は痛みを堪えながら起き上がった。まだ後頭部がズキズキと痛む。そのせいか、歩き出してしばらくは霞がかかったように頭がふらふらしていた。
「う〜、ん」
そのぼやけた視界に何かが映った。ゆっくりとそこに目の焦点が集まっていって、それはある立て札になった。
【とまれ】
標識は道の真ん中から生えていた。
(なぜこんなところに?)
周りは見通しがよく、ここに標識が必要な意味が全くわからない。
標識を無視して男は歩き続けた。するとふいに、後ろから引っ張られた。実際は袖を掴まれただけだったが男は振り返った。
振り返ると子供が一人立っていた。小学二三年生くらいだろうか。身長差が倍以上もある男を見上げ、物言いたげな目をしていた。男が声をかけようとした時だった。
男のすぐ隣りを蕎麦屋の配達の自転車が物凄い速さで通過していった。じりりりりんとけたたましいベルを鳴らして、蒸籠を片手に持って。
男は呆気に取られながら、ぐんぐん遠くなっていく蕎麦屋を眺めていた。もう少し引き止められるのが遅れたら、確実に、自転車と正面衝突した挙句に蕎麦を頭から被っていただろう。
男はお礼の一つも言おうと、子供の方を向いた。するとそこは無人になっていた。狐につままれたようだった。しかし、よくよく目を凝らすとすぐ傍の電信柱の影に見覚えのあるシルエットが重なっていた。男が近づくと、素早く通りの角を曲がっていってしまった。男がつられて角を曲がると、
【徐行】
道の真ん中に、でん、と標識は突っ立っていた。幅がほぼ三メートルほどの道の真ん中にはあまりにも大きすぎる。それに男は歩いている、何ら問題はないはずだ。はずだった。向こうから子供が走ってきた。それだけでは終わらなかった。
「早くこっちに来い!」
男はあわてて子供に駆け寄ると、体ごと抱えて自分も走り出した。
向こうから巨大な恐竜が走ってきた。開いた口からは鋭い牙がのぞいていた。
男は子供を抱えたまま、逆走して、肩が痞えそうなほど狭い脇道に飛び込んだ。うずくまって息をこらす。
男の姿を見失った恐竜は、荒い鼻息をして辺りを見渡していたが、もともと短気なのか、再び走り出すと、ブルドーザーのような地響きを立てて何処へと消えていった。その光景を背中で感じていた男は、足音が遠く小さくなってしまってから、その場にへたりとしゃがみ込んだ。どっと冷たい汗が噴出す。
「けがは、ないか?」
男はまだ緊張が抜けず、声のトーンを落として言った。子供は頷いた。表情はいくぶんか硬い。
「そうか。よかった」
一息ついてから男はまた話しかけた。
「君、名前は?」
『325の4』
何の躊躇もない答えだった。
「それは家の番地じゃないの?」
首は横に振られた。
「まあいいや。こんなに危ないんじゃあ、一人で帰らせるわけにもいかないし、君…325の4のお家はどこ?」
子供はしばらく上を見たり下を見たりしていたが、やっと決心が決まったのか塀の向こうを指差した。塀の方向は、だいたいあの恐竜がやってきた方角だった。男は少し考えてから、今自分たちがいる路地を見渡した。するとどうやら標識らしき物はないようだった。男は、道路標識がだんだん忌むべきものに思えてきた。
「さっきの道は危ないから、この路地のどこかで曲がるしかないな。そっちの方向にずっと歩いていけば、大丈夫だ」
男は子供と手をつないで歩き出した。
「心配するなって、きっと帰れるから」
男の声に子供は嬉しそうに笑った。

路地を曲がると、そこには標識はなかった。
「ここは大丈夫みたいだな」
次の道は、少し下りの傾斜がついていた。ボールを置いたらじんわりと間をとってから転がっていく、といった感じの斜面だ。
男は無意識に上を向いた。そして太陽の位置がまだまだ高い所にあることに安堵する。今が昼間で、空の上から、例え太陽であろうと、自分のおかれている状況を見ていてくれる存在に安心するように。
ふと。
視線を、戻す。
うすいオレンジの標識が立っていた。
山肌から岩が転がり落ちていく、様子が描かれてあった。
オゴゴッゴゴゴゴオゴッゴ…
地響きが迫ってきた。
反射的に後ろを振り向いた男の目には、大小さまざまな岩玉が弾みをつけながら転がり下りてくる瞬間が、スローなモーションで映った。
「このっ」
とっさに子供を、家の塀に担ぎ上げ、自分も塀に手をかけてよじ登る。だが、間に合わなかった。勢いをつけた岩玉の一つが男の脇腹を直撃した。男はその場に倒れこむ。子供がわけのわからない言葉を発した。その声も岩玉の轟音にかき消される。
うずくまって動かない男に、第二第三の岩玉が迫りくる。その時、子供がヒトキワ大きな声をあげた。すると、岩玉は男の隣を転がっていった。何度きても同じだった。岩玉は男を避けるように流れを変えて、ただ隣を通り過ぎていく。
男が咳き込みながら、意識を取り戻すと、目の前に背中を向けた標識が悠然と立っていた。次々向かってくる岩玉に怯むことなく、真っ向から挑んでいる姿が、男の脳裏に焼きついた。よく見ると、岩玉は標識の手前で強引に向きを変えていた。一度もかすりもしない。
ようやく、岩玉の大行進が収まった頃、男はやっと子供のことを気にかけられるまでに回復していた。塀の上を見上げると、心配そうに男の方を見つめる子供の視線と目が合った。その目には大粒の涙が光っていた。
男は痛みにうめきながら、何度目かのチャレンジでやっと塀に手をついて立ち上がると、降りられなくて困っていた子供を塀から降ろしてやった。それから、背を向けたままの標識の前に回ってみた。青くて四角い、そして白いVサイン。
【安全地帯】
男は一瞬だけ痛みを忘れて笑った。子供も笑っていた。
「ありがとう」
数え切れないほどの深呼吸のあと、男は子供に支えられながら何とか歩き出した。
男と子供は歩く。
一歩ずつ。おぼつかない足取りで。
その一歩は小さいけれど、確かに前に進んでいた。
男は体が上と下、右と左に分けられそうな痛みに意識が飛びそうだった。
子供は額に汗を浮かべ、必死に男を支えようとしていた。その姿がいじらしく、男は足を無理にでも前に出した。確かなのは心臓が動いていることくらいだった。
男の時間感覚では何週間もの時間が経過した後、子供は自分から話し出した。
「ごめんなさい。208と407―Bのところに遊びに行きたかった、だけど、こんなに怪我さしちゃって」
男は何故かその言葉の意味が理解できた。
「いいんだ。誰だって友達と遊べなくなるのは嫌だよ。でも、黙って出て行くのは危ないから今度からは・・・と一緒に行こうな」
「うんっ!」
男は理解できたことに不快感を感じなかった。むしろ当然のようにも思えた。そんな自分を疑問に感じながら、男は前方確認をしようと首を縦に動かした。
【!】
ほんの数メートル先に、暗い黄色を纏った菱形の標識が立っていた。漆黒のビックリマークが命の危機を脳髄まで知らした。
急に男の顔から血の気が引いた。子供はその場にしゃがみ込んだ。
男はその標識のもつ意味を知っていた。
「その他の・・・危険」
男は生唾を呑んだ。
黒雲が青空を飲み込みながら、穏やかな正午の空気をさらって、身も凍るような風が街を吹き荒れだした。さらに、轟音と共にアスファルトの地面に亀裂が生じだす。そして裂け目から一本角の生えた恐竜が現れ、空から火炎を纏った無数の岩玉が降り注いできた。
男は思わず目を閉じた。
すると、目の裏のスクリーンにいくつもの映像が細切れに映し出された。
男は全てを受け入れ、そして全てを理解した。
男は叫んだ。

「いい加減にしろ!! 俺のどこが気に入らないんだ!!!!」

その途端、風も、揺れも、恐竜も、岩玉も停止した。時が止まったように。

「何か言ったらどうなんだ!!!!! いい気になってんなよ!!!!!!!!」

標識はどんどん小さくなっていって、やがて空気に溶けて消えてしまった。まるでビックリマークの数に圧倒されるように。
標識が消えたあと、不思議と体の痛みが消えていった。脇腹をさすっても何ともなかった。
男はしゃがんだまま動かなくなっていた子供の手をとって肩車をすると、歩き出した。


やがて、男と子供は家にたどり着いた。もうすっかり空は夕日に染まっている。
「ただいま」




向こうから、親子が手をつないで歩いてきた。
「ママ、あのカンバンなあに?」
「う〜ん、見たことない標識ね。パパ知ってる?」
「わからないけど、何だか楽しそうな絵だね」
「パパ、あれやって!」
「ようし、それっ」
 肩車をされて楽しそうな子供と、微笑む両親を、標識は静かに見守っていた。
 

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