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針[3]


殺人鬼の誕生
13.
坂田銀八の大らかで、優しく、しかし今にも折れそうな翼に、高杉は惹かれた。
子供のころから頭脳明晰で容姿端麗。家柄も良かった高杉は、一生涯優の座を保証されたようなものだった。
だが年を重ねるごとに、不自由のない生活というのは、かえって人の心を不自由にしてしまうものだと知るのだ。
自分と似通った世界の人間に囲まれた生活は、退屈なことこの上なく、丁度中学を卒業する頃から、高杉は翼がほしいと願うようになった。

坂田銀八との出会いは、わざわざ他人に言って聞かせるほどの劇的なものでも、綺麗なものでもない。高杉が大学に入った頃だろう。
ある日、新年会の帰りだったか、酔っ払って地べたに寝転がっている男を見た。
数メートル前に嘔吐物があったので、この男のものに違いないと、高杉は嫌悪感を覚えつつ男の前を通り過ぎようとした。

高杉はそこで足を止めた。男の寝顔が高杉の目を捉えたのだ。
それはとてもだらしなく下品極まりない。しかし、子供のように純粋な寝顔だった。
母性本能が働いたのだろう。親元を離れていた高杉は、その男を、自分の家に引きずって行った。
今思えばその時すでに、その男に、どうか自分の人生を狂わせてほしい、と、残りの生涯すべてを委ねてしまったに違いなかった。

身体を持って人を誘惑したのは、これが初めてだった。
酔いの醒めないまま起き上がった男の隣で、高杉は全裸になる。
男は目を丸くしたが、「初めて美人と寝る夢を見た」などと寝言を呟き、高杉を押し倒し、酒臭いキスを槍のごとく浴びせた。
反吐の匂いで鼻がもげそうになるが、高杉がセっクスに安堵感を抱いたのも、銀八が最初で最後だった。

銀八が教師になる、と言った時は驚いたが、こんな教師がたくさんいたら学生生活も充実するだろう、と思い直し、
いいと思う、と言ってやった。
「晋助なら分かってくれると思ったよ」恐らく周りから反対されていたのだろう。

14.
銀八の家に転がりこんだのは丁度5年前。
同居してから1年が経ち、お互いの生活習慣も許容の範囲内だと分かり、この男と同じ墓に入れたらいい、などと、浮ついたことを考えるようになる。

だが、その優しい翼には狂気の刃が潜んでいることを、同時に知ることとなった。
忘れもしない。騒然と雨が降り注ぐ、そんな夜だった。

電気が点いていない。外の薄明るさが、かろうじて部屋の状況を高杉に知らせる。
一瞬の雷光。次いで、けたたましい落雷音。
しゃがんでいる男の背中が点滅した。

「銀八」と声をかけてみると、彼は高杉の声に何の反応も示すことなく、下ばかり見、何かに夢中になっているようだった。
高杉は近づく。男の傍に立つと、途端に高杉はか細い悲鳴をあげ、吐き気を催した。


「なに、やってんだ……?」


世にも恐ろしいものを見た、という声音。
だがもっと恐ろしいのは、自分の、自分が思っているよりもずっと大きな、銀八への愛情だと後々思い知った。

輪切りにされた、ばらばらの、猫の死体。
のこぎりで切るのには飽きたらしく、ハサミで耳を刻んでいる最中だった。

「晋助、帰ってたんだ」

振り向きもしない。彼は作業を止めないのだ。

「どうして、そんなことを……」
「…落ち着くから」
「え?」

銀八の自由奔放さは、ガタガタの土台で支えられており、恐ろしく繊細な神経の持ち主だと、この時分かった。

「俺、自分が生きてないような気がすんのね、時々」
「銀八?」

銀八がこんなにしょうもない泣きそうな声をしているのは、初めてだった。

「この世ってさ、不透明すぎだと思う。信用ならない、というのかな。人の心も、法律も、環境も…
そんな不透明な場所に生きてる俺も、本当は生きてないのかな、誰が、生きてるって認めてくれてるのかなあ、なんて時々思うのよ。
俺怖いんだ。いつも怖くてさ」
「急にどうしたんだ」
「だから」

銀八は凶器を置いて、立ち上がる。

「命を奪うって感触が、とてもリアルで、落ち着くんだ…ほっとするっていうのかな」

その時の表情は、とてつもなく高杉の心を揺さぶった。
この男のどこに、そんな闇が存在していたのだろうか。

「お前は」
「人を殺したい」
「っ」

差し迫る、銀八の叫びだった。高杉の心臓が、不穏なリズムを刻み、震えあがる。

「俺を、殺したいと思う日が、来るということか…?」
「………」

死の恐怖が高杉の声を震わせる。だが銀八は暫く黙した後、首を横に振った。


「晋助、大好きだよ。ごめんよ、怖がらせて、大好き」


子供が母親に弁解しているようだった。

「だから、協力してほしい」
「え?」
「晋助の力で、俺を、連続殺人鬼にしてくれ」

銀八は本気だった。膝を折って、怯えを見せる高杉の腰にすがりつく。

「頼むよ…晋助、愛してるよ。だから、俺を助けてくれ。お願いだよ」
「………」

人を殺すことが救いだと。何がこの男をそのような思考回路にしてしまったのか。
そして何故、この時止めようという意思を、自分は失ってしまったのだろうか。
人殺しに協力しろ、と。それが銀八を両腕で抱きしめ、包容すると同じことなのだと、錯覚してしまったのだろう。

「分かった…」
「ホントかっ?」

無邪気に喜ぶ銀八を見て、それだけで、本当は良かったのだろう。

「でも、どうするんだ…俺だって、さすがに犯罪に関しては…」
「こんな話を聞いたことがあるよ」

銀八もその手の知識はない。ある小説で読んだものだという。

「ある天才科学者がいて、そいつは連続殺人犯でかつ指名手配なんだって。でも捕まえられないんだ。どうしてか、分かる?」
「さあ…」
「そいつの恋人って、脳外科の女医なんだってな」

脳、と聞いて、高杉はぴんと来た。


「その男は、自殺した。でも生きていたんだ。脳だけね。恋人が自分の患者に、男の脳を移植したから」


精神という名の逃亡犯。人の身体を使って、殺人を繰り返していたのだ。

「確かに父は脳外科医だが…頼めるわけがない」
「晋助はシステムを駆使しているよね。それでいけない?」
「どういう意味だ」
「俺の脳をデータ化したメモリースティックみたいなの作って、他人に埋め込む、ていうのは?」
「どちらにしろ、脳を切り開くんだろうが」
「切り開く必要のないサイズで」

銀八の殺人計画は、恐ろしい勢いで出来あがっていた。

「そんなもの、俺に作れるわけが」
「できるよ…絶対、できる。晋助なら、できるって。出来ない人間には、俺頼まないよ」

暗示をかけられているようだった。
銀八の言葉は、まさに“魔”を宿しているのではないか。

15.
坂田銀八の頭脳は、『一本の針』として生まれ変わることになる。
父親に資料を借り、脳医学に関しての知識を身につけ、それを自分の専門分野につなげようと思った。
完全犯罪のための学問。高杉は睡眠不足と戦いながら日々努力し、のめり込んでいった。
すべては銀八のため。そんな甘い言葉でまとめてしまっていいのだろうか。

銀八は初めて人を殺す日を迎えた。
前日は酷く興奮し、高杉を荒々しく抱いていた。
明日には自分の努力が報われる。そんな血生臭い喜びを、高杉は噛みしめていた。
もう後戻りはできないのだと。そしてする気も起こらないのだった。

「わっは、晋助やったぞ」

アパートに忍び込んで、一人住まいの男をめった切りにして殺した。
その時の銀八のはしゃぎぶりは、一般人から見れば、鬼。
だが高杉から見れば、自分が身体を酷使して生んだ、血生臭くも可愛い息子だった。

自殺した銀八の死体を見るのはやはり辛かった。
その日は明け方まで泣いたものだが、頭を切り替え、計画を実行した。
高杉は大学の仲間である、平賀三郎に近づいた。彼が高杉に好意を持っていることを、知っていたからだ。

「抱いてもいい」

そんな誘い文句で、部屋に入れてもらい、途中までは好きにさせてやった。
こいつの命もあとわずか。この一本の針を脳に埋め込まれ、精神を破壊された後、坂田銀八という殺人鬼として生まれ変わる。
まさにそこをほぐされて、息が上がっている最中、高杉は布団に忍ばせておいた針を二本の指に挟む。
全く警戒心のない眼前の男の、耳の上あたりを狙って挿しこんだのだ。

平賀三郎は意識を飛ばした。その数秒後に、目を覚ましたのは。

「晋助、すげえや。成功したじゃん」

平賀三郎の姿をした、坂田銀八がそこにいた。

16.
自分の仕事は銀八に人殺しを繰り返させること。
こんなどうしようもない役回りを、何と呼ぶのか。情か。

「銀八、そろそろ」

表札には、『土方』とある。まだ10代の子供じゃないか。可哀そうだがこれも彼のためだ。
腕の中で、白い猫がニャーと張り詰めた鳴き方をする。
高杉の指が猫の耳の後ろに宛がわれ、そこに埋め込まれている“針”をつまんだ。

引き抜くと、猫は抜け殻になり、動かなくなる。
高杉は白い猫を片手で掴み、そのへんにぽいっと捨てた。
自分がどんどん人間離れしているのを感覚しつつ、高杉はドアベルに指を押しあてた。


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