Evolvulus

□危ない事故が起きるところだった
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その日は、母の笑顔と好物の入った朝食から始まった。

「俊くん。お誕生日おめでとう」「…ありがとう」
母の言葉に気恥ずかしい気持ちになったが、それよりも今日が6月5日であることを思い出した感動の方が大きかった。感動、というと喜んでいるように聞こえるが、俺の中で起きた感情の動きは「ああ、なるほど」程度のもので、腑に落ちた反動でしかないのだが。
誕生日祝いのケーキもプレゼントも、俺自身の関心の薄らぎと共になくなっていった。
パーティーをするような賑やかな友人がいるわけでもない。家族だけで祝うにしても、たった三人でホールケーキを買ってしまっては食べ残しが気になってしまう。プレゼントに関しては、親にたかる程の高価なものにも関心がない。安価な物は自分で買えば良い。
とにかく俺は誕生日については特に何とも思っていないし、特別なことをしてほしいとも思っていない。それでも母にとっては祝いたい行事であるらしく、このように俺が好むおかずを毎年拵えて出してくれる。
「今日は風がちょっと強いんだって。自転車気を付けてね」
朝食後、身支度している間に流れていた天気予報の情報を、母が教えてくれた。その時テレビが映していたのは星占いで、普段は興味がないので聞き流していたのだが、『うっかり落とし物をしてしまうかも。お金などの貴重品は特に注意してくださいね』などと聞き捨てならない言葉が聞こえてしまった。金を落とすかもしれない、と言われてしまったようで気になってしまい、結局その双子座の占い結果を最後まで聞いてしまった。









昼休みになって、読み終わった本を返却するために図書室へ向かった。人気のあまりないのを見計らって換気をしているようで、開いた窓の傍でカーテンが荒ぶっていた。今回借りた小説本は面白かったが、ページ数が多く分厚かったために持ち歩きに不便なのが難点だった。
次借りるのは薄くて手頃な文庫本にしよう。
そのようなことを考えながら、本棚と本棚の合間を縫い歩く。すぐそこで表紙を見せて置かれた本が目に留まった。鮮やかな紫色のアジサイが描かれた本だ。
…そういえばラッキーアイテムは花の図鑑だったか。
占いを信じているわけではないのだが、考えてみれば図鑑なんて最後に読んだのは小学一年生頃だったような。となると、ちょっとした雑学程度に読んでみるのもたまにはいい気がしてくる。ページ数が分厚いものもあるが2〜300程度の図鑑もいくつか見られる。どういうのがいいだろうか。目立つように置かれたアジサイの図鑑や、季節の花の類は趣味ではない。
バラ図鑑…桜図鑑……毒キノコは中々趣深いな…
上から見ていって、一番下の棚でようやく気に入るものを見つけた。
食用の雑草…これはいい。将来就職した際に家を出るつもりでいるし、食事の節約として覚えておいて損はない。


本を取ろうと屈んだ瞬間に、換気で開いた窓から強い風が吹き込んだ。本棚の隙間から襲い掛かる突風に、伸びかかった髪が乱れ視界を奪われる。
「うわっ…」
慌てて髪を整えた。すると足場台を抱えこちらに近づいてくる女子生徒のスカートが目に飛び込んだ。
――風で広がるプリーツの折り目。
「!!」
すぐに本を手に取って立ち上がった。動揺を見せないように、努めて緩い歩行でその場を離れる。決して不審には見られないように。角を曲がる前に、少し後ろを振り返った。
女子生徒はちょうど俺がいたところで足場台を下ろし、棚の上部に手を伸ばしていた。図書委員の生徒だった。いつも赤い花のヘアピンを付けた、ショートヘアの女子。名前は知らないが、図書室に通ううちにすっかり顔を覚えてしまった。

…危ない事故が起きるところだった。これからも図書室は利用していきたいし、委員の人間と気まずい空気になるのだけは避けたい。
もう、すでにほんの少し気まずい気持ちがありつつあるのだが…。


「…すみません、」
と思っていた矢先だ。彼女が追いかけてきて、俺を呼び掛けた。
「これ、落とされませんでしたか?」「…え?あっ」
彼女から手渡されたのはボールペンだった。その辺にいくらでも売っているようななんてことないデザインの安物だ。だが、確かに俺のボールペンだった。見ると、今日たまたま胸ポケットにつけていたはずのそれが、なくなっていた。
「ありがとうございます」
対話はそれで終わった。軽く会釈を交わし、持ち場に戻る彼女の後姿を、何気なく見送った。
…ラッキーアイテム、か。まさか「ラッキースケベ」のラッキーじゃないだろうな。馬鹿馬鹿しい。
内心そう悪態をつきながらも、彼女が歩くたびに振れるスカートのひだについ再び視線を取られていることに気が付いた。申し訳ない気持ちになった俺は、近くにあった窓を閉めた。



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