Evolvulus

□彼は少し変わっているのかもしれない。
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昔から、字を書くのが好きだった。

物書きを志しているわけはない。私が書いているのは、日記と、学校や塾で学んだ内容、姉のような近所の友人と交わすプレゼントのメッセージカードくらいだ。

ただ文字を書く行為そのものが楽しい。小学生の時に書道を習っていた名残かもしれない。
ただ筆記をするだけで心が落ち着く気がする。それでいて深く集中していく実感と、心が躍る気持ち。ないまぜな感情だが、それが良い。





「それでは、後ろの席からプリントを回収してください」

終業のチャイムと共に、先生が配布資料を提出するよう言った。

現国の授業は毎回初めにプリントを用意され、その授業内で使われる教材ページに関する要点と解釈・感想の記入を求められるらしい。
入学して二回目の現国の授業、といっても初回授業は形式や一年に予定されたカリキュラムを説明されるだけなので、実質今回が最初の授業ということになるだろう。
さすがに慣れていない新入生の中には、提出時間に間に合わず焦って筆を走らす人も少なくなかった。



――神谷くんも例外でなく急いでいるようだ。机に屈みこむような姿勢で消しゴムをかけている。



彼は、入学式早々遅刻しかけた時に、誤って衝突してしまった人だった(正確には私とではなく、一緒に走っていた友人の翔姉さんとなのだが)。
こちらからぶつかってしまったのに、彼には真っ先に謝られてしまった。あまりにも気が動転している様子で誤っていた彼の姿を思うと、今でも余計に申し訳なさがこみあげてしまう。

しかも彼はクラスメイトであり、教卓の目の前の席なのだ。窓側2列目の4行目に座る私の視界に必ず入るという状況が。

こちらからもあの後改めて謝罪をし、お互い水に流しあうことにはなった。
だがそういった経緯があるために、ただのクラスメイトとして無干渉でいることが妙に気まずいのである。だからといって用もなく声をかける術もわからない。






後ろの席から渡されたプリントに自分のプリントを重ね、前の席に送った。
私のプリントを連れた最前席の女子生徒が、教卓のプリントの山に乗せた直後、びりっとした紙が千切れる時の音がした。どうやら神谷くんが消しゴムでプリントを破いてしまったらしい。

「あ、あ、やばっ」

神谷くんの後姿はますます慌てふためいている。
彼の後ろの席ではもう数枚のプリントを持った生徒が待機していた。

少しして彼は書き上げ、列のプリントを回収し、教卓の上に重ね置いた。
一番最後だった彼を待っていた先生が、素早く教材を抱えて教室を出ていった。





ふと、神谷くんの視線が私の方へ向けられた。私がたまたま彼を見ていたおかげで、ばっちりと目が合う形になった。

「水沢さん」

動揺する間もなく、神谷くんが机の前までやってくる。
対応に困った私は、とりあえず教科書やペン類を片付けながら呼びかけに答えた。

「なんですか?」
「…み、水沢さんって字が綺麗だよね」

「……………はあ。あ、ありがとうございます」


…やや唐突な物言いを己で処理するのは、少し時間がかかった。
彼も少しばつが悪そうな顔をして、胸ポケットを指でいじりながら、たどたどしく言葉を続けた。

「えと、さっき教壇で水沢さんのプリント見て、名前の字見てすごく綺麗だなって思ったからさ。あ、見たっていうか、ほら、みんな適当に重ねちゃうから半分くらい飛び出てて、それで見えたんだよ。他の人のもちょいちょい見えたけど、君の字は抜群に綺麗だったから…それだけなんだけど!」
「ああ。それはどうも」

じゃあ、と言ってそのまま神谷くんは教室を出ていった。本当に字を褒めるために声をかけてきたようだ。


不思議な人。彼は少し変わっているのかもしれない。

自分の中の彼の人物像が見えてきた気がした。だがやはりどう接していけばいいのか、その感覚はまだつかめそうにない。





…私も、一人のクラスメイトを気にしすぎだろうか。







次の授業に使うノートを開く。
まだ一度も使っていない真っ新な1ページの片隅に、意味もなく「神」と「谷」の字を並べ書いてみた。



多少バランスよく書けたのだと思う。

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