Evolvulus

□今しかないっていうじゃん?
1ページ/1ページ

蝉がうるさい。

俺の部屋の前で鳴いているらしい。
二階にあるこの部屋からは隣の庭木の緑がよく見える。
あそこで鳴いているのだろう。手を伸ばせば枝の一本や二本掴める距離だ。窓なんて開けてなくてもよく聞こえる。

よりにもよってこんな近くで鳴きやがって。ふざけてんのか。



「うるせーーーー…」

耐えかねて耳を塞ぎ、卓上に突っ伏した。
日本語かどうかもわからねぇグダグダした文章とつまらない点と線の羅列がドアップになる。

「おい、潰れるな。まだ5問も解いてなんだぞ」
「いったん休憩」
「駄目だ。そのページあと10ページ終わるまで」
「日が暮れるわ鬼!」

クソ真面目の兄貴が俺の頭を叩いた。
毎年恒例ともいえる夏休みの勉強会。親が用意したローテーブルを挟んだすぐ前で、兄貴が俺の勉強を監視する。
うんざりするような地獄の習慣だったが、それでも二週間程度の時間で終わっていたんだからまだましだっただろう。
だが今年は受験もあって、宿題が終わっても制限なく兄貴は召喚される。アビキョーカンとはこのことか。

「マジ蝉うるさくて気が散るんだけど。なぁ、CDかけねぇ?」
「余計にうるさくなって気が散るんじゃないか?」
「そんなうるさくはならねぇよ。テンションは上がるけど」
「完全にうるさくなるな。おまえが」

兄貴は呆れながら、髪をゴムで乱雑に縛りなおした。

「兄貴、髪くらい切れよ。見てるだけで鬱陶しいし、暑苦しい」
「ほっとけ。髪を切るくらいで千円も使うのはもったいない」
「守銭奴。だからって行かなさすぎじゃね?」
「……俺を散髪に行かせれば勉強から逃げられるって?」
「チッ、バレてら」
「いいから問題文を読め」

じろりとこちらを睨むと、もう話すことはないとでもいうように手元の参考書に視線を移した。
何の参考書かは興味ないが、検定を受けるらしい。兄貴の分の宿題は俺よりずっと、とっくに終わっている。



これ以上勉強する意味がわからねぇ。何を目指しているのか聞いたことないし興味もないけど。若くて体力もあって遊ぶ時間がるのだって、今しかないっていうじゃん?

つっても、受験のことも宿題のことも勉強全般全く納得してないけどな!



「あ〜もうめんどくさっ!なんで受験なんか……つかこんな毎日勉強する必要なくね?」
「おまえの成績の遅れ具合じゃ毎日勉強したって追いつけないくらいだ」
「そんなすげー高校狙ってねーし」
「そもそもどこにも行く気がなかったくせに。だから親御さんが青花に行くよう勧めてくれたんじゃないか。少しは真面目に取り組め」
「真面目ったってな…。努力したって無理が気がするけど」

だって俺だぜ?大体根っこから嫌いなもの、どうやって努力しろってんだよ。
好きでもないことを努力してみたところで習得にはならない。やる気がない以上取りこぼすものだ。

まぁ努力自体が得意な兄貴なら成功するかもだけど。





…そういう意味で言ったが、よく考えたら思いっきり地雷な発言をしたことに気が付いた。


パキっと小さな音が、蝉の音に紛れ込む。
聞き逃しそうなくらい小さな、ただシャー芯が折れただけの音。

だがたったそれだけの音に、部屋中の空気が一気に凍り付いた気がした。



黙ってシャープペンをノックする兄貴は、何でもないような体で芯が出てくる様を観察している。
髪に隠れた眉間も、軽く閉じられた口の下の奥歯も、平静なようでかなり力みが入っている。




ああ、やべぇ。まずった。
兄貴はまだ受験のこと引きずってたんだ。
失敗した。完全にトラウマスイッチじゃねぇか。



こういう重苦しい空気の時、俺の脳ミソは現実から逃げるように、関係のないものを見つけて考えるようにできているらしい。
今回はそれが周りの音についてだ。


窓のうるさい蝉に交じって、別の蝉が遠くでハモっている。
自転車の車輪が回転する音。
親父の声。
階段を上ってくる足音。


「…俊ちゃん。鋼ちゃん。少し休憩して、おやつでも食べなさいな。」


音が音を呼び、無音さえも音と感じそうな途中、祖母ちゃんが部屋に入ってきた。手作りの梅ジュースと葛餅を盆にのせて。

すぐに兄貴が祖母ちゃんのいる方へ振り返り立ち上がった。

「ありがとう祖母ちゃん、いただくよ」

うなじで縛られた、汗で貼りついた髪。
祖母ちゃんと話す兄貴の声はいつも通りの、普通の声色だ。
この声なら、あのトゲトゲした表情からは発せられない。
俺は安心して現実に帰ってきた。



「…悪かった」

祖母ちゃんが出て行ってすぐ、俺は兄貴に詫びを入れた。


受験のこと、もう平気だろって油断が、あったのかもしれない。兄貴は努力ができるやつだ。どんなに嫌いなものでも、どんなに苦手なものでも。…そりゃ、引きずってるだろ。まだ全然、引きずってるに決まってるよな。

さすがに無神経だった自分が、恥ずかしかった。ちょっとだけ。





盆から、ジュースと菓子が淡々と並べられていく。
兄貴の分、俺の分の順でテーブルに配られていき、最後に菓子が俺の前に差し出されたとき、やっと兄貴が口を開いた。


「おまえが先に謝るなんて、明日は雪か?」
「ざけんな」

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ