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□魔法にかけられて
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甘いカステラのようにしっとりとした夜で、僕は今日も眠れない夜を過ごしている。
ベッドの端に腰掛け、いつものようにロックグラスに入った琥珀色の液体をなめながら、ときどきこぼれる深いため息。胸には苦いような、甘い痛みを感じている。
眠れない夜。今まで経験したことがなかった。夜は僕にとってとてもやっかいな存在だ。
舌にぴりりとした苦みが走る。液体は流れるように僕ののどを通り、体にたっぷりと吸収される。そうして、だんだんと僕の体を支配するのだ。正確に言えば体だけじゃない、精神までも乗っ取っていく。悪魔のように狡猾に、いやらしく。
「眠れないなら・・・そうだなあ」
お酒でも飲んでみたらどうかな。そう言ったのは彼だった。よく晴れた夏の日で、経済学の講義を受けているときだった。
「飲み過ぎはよくないけどね」
僕の隣でまだまっしろなノートを机に広げ、ひそひそと小さな声で話す、ひかえ目で少し恥ずかしそうな横顔。
思い出しながら、僕は無意識にグラスの中の液体をゆらゆらと波打たせる。大粒でまるい氷がからからと切ない音を立てた。
「眠れないよりはマシかも」
彼はとても大きな目をしていて、光にあたるときらきらと輝く。
ぐい、とグラスに残ったウイスキーを飲み干す。どくんどくん、と血液が勢いよく体を巡っている感じがする。暴れているみたいだ。
苦しい。それから、腹から胸にじりじりとこみ上げてくる、とっくに名前のついた感情。かすかだが、めまいがした。
ベッドサイドのランプのぼんやりとした明かり、それだけを頼りに、からになってしまったグラスにウイスキーをなみなみと注ぐ。飲んでもあまり変わらない方だが、どこか遠くの世界に行けるような、体ごと精神が宙に浮くような感覚が好きだった。
眠るとき、僕はベッドサイドのランプだけはつけておくことにしている。一人きりでは暗がりで眠ることができない性質で、それは子どもの頃からずっと変わらない。なんか意外だね、そう言ったのも彼だった。
「骸は意外と怖がりでさみしがり屋なんだ」
どこかいじわるな言い方。悪意のない、きらきらとした瞳。
ばかみたいな話だ。彼のせいなのに。
もうずっと眠れない日々が続くのは、間違いなく彼のせいなのに。
グラスのウイスキーを速いペースであけると、胸がじりじりと灼かれていくようだった。
僕ののどを通って体に吸収され、僕の意識をふわふわにする。本当に、スコッチは悪魔のような飲みものだと思う。そして、そんなものを薦めた彼はまるで悪魔の手先のようだ。いや、むしろ彼自体が悪魔なのだ。
いつものようにふらふらとベランダに出て、やわらかな夜風を体に受け止める。部屋の中より少しひんやりとしていて気持ちがいい。
住宅地の中で、高い建物はほとんど視界に入らない。紺に紫をとかしたような、雲のない夜だ。このベランダからは星がよく見える。
彼は悪魔だ。
不思議な呪文を唱えて、簡単に僕に魔法をかける。
煙草に火をつけてすうっと吸い込み、一息で大きく吐いた。そして思う、まったくばかげた話だ、と。
「甘いもの好きなんだ」
地方大学の、古びた教室棟の前だった。僕は石のベンチに座ってチョコレートを食べながら本を読んでいた。
「ドイツ語、一緒のクラスだよね」
僕の方では彼のことなど知らなかったが、どうやらお互い第二言語はドイツ語で教室も同じらしい。彼は沢田綱吉と名乗った。
「よかったら一緒に受けない?」
大学で誰も友達いなくて、と彼は言った。
同じだ、と思った。大学にはこんなにたくさんの学生がいるのに、僕には友人と呼べる人間がいなかった。
彼はかわいらしい顔をしていたが、どちらかというとおとなしくて目立たないタイプだった。
だから不思議だった、何故彼が僕に声をかけたのか。僕はその大学で完全に一人だけ浮いていたから。
異国の血が流れているのも関係していたと思う。僕は西洋人特有の彫りの深い顔立ちをしていて、いつも不機嫌な顔をしていた。それに、他人に興味がなかった。
あとで思ったことだが、彼はそんな僕だから声をかけたのだ。きっと。
ほかに選択肢がなかった。それは、ある意味で運命的だと僕は思う。僕の物語のページに、彼が現れる必然性のようなものを感じた。
煙草の煙が夜風にさらわれ、あとかたもなく消えていく。見上げると、夜の闇にくっきりとした月が浮かんでいた。
まったくばかげた話だ。
あのとき。たった一瞬のできごとだった。
午後のやさしい光の中で、僕は魔法にかけられてしまったのだ。
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