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□なまえのないこどもたち
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静かだ。
静寂があまりにも深いと、かえって空気がやけにうるさく耳に振動する。綱吉がそれに気がついたのは、別に最近のことではなかった。
ではいつからだろう。孤独に慣れたのは。
綱吉は自身の体温であたたまった布団の中から抜け出して、はだしの足で階段を下りていった。つま先が少し冷たい。靴下をはけばよかった、と少しだけ後悔した。
暗がりの中、手探りで冷蔵庫を開ける。その行為に特に意味はない。どうせ入っているものなど知れているのだから、開ける必要もなかったのに。
無意味に中をながめ、また意味もなく閉めてみる。ほんの一瞬現れた人工的な光は姿を消し、思わず身震いするような、ひんやりとした冷気だけが顔や腕の皮膚の表面に残った。
いつものことだ。
手探りで壁のスイッチを探し、台所の明かりをつける。流しの下の扉を開け、カップラーメンを一つ取り出し、ポットのお湯をカップの線の少し下まで注いだ。
明日は学校を休もうか。壁にかけてある大きなかけ時計を見て綱吉はいつものように考える。
動かない時計の針。時計は、ずいぶん前に止まったり動いたりを繰り返し、ある日本当に動かなくなってしまった。
止まったままの時計。文字盤の「12」の上には白い小窓がある。まだその時計が動いていた頃、小窓からは決まった時間になると白い鳩が現れ、ぽっぽー、と間の抜けたように鳴いた。もう、ずいぶん昔の話だ。
学校を休む。休まない。休む。休まない。休む。休みたい。まるで花占いみたいだ、と綱吉は思った。
小学生の頃、学校の運動場の隣には背の低い石垣に囲まれた「児童の広場」というものがあった。うんてい棒やブランコや登り棒などの遊具があり、少し離れたところには観察池があった。
子どもたちは休み時間になるとそこへ走って行き、遊具で遊んだりかくれんぼや氷おにをしていたが、おとなしい部類の女の子たちはいつもそこで花占いをやっていた。
すき。きらい。すき。きらい。すき。きらい。
「きらい」で花びらがなくなってしまうと、女の子たちは「やりなおし」といって、新しい花をみつけてはちぎっていた。
無邪気で残酷な女の子たち。
女の子たちがその場を離れると、そこにはピンクや黄色のかわいらしい花びらがばらばらと散らばり、茎や葉が無惨な姿で醜く横たわっていた。
誰も観察池に近寄らないのは、綱吉にとっては都合のいいことだった。藻に埋め尽くされた観察池の、冷たいコンクリートブロックのそばで、綱吉は「児童の広場」をただただながめていた。
早く時間が過ぎていけばいいのに。
わずかに開いた小さな口からはぼんやりとしたため息がこぼれ、やがて動かない空の水色に吸い込まれていった。あの頃。雲は、ゆっくりと気まぐれに風に乗って流れていった。
いつからだろう。孤独に慣れたのは。
もやもやした気持ちで「だいたい3分」待ち、カップラーメンのうすっぺらいふたをあける。それから、いつものように引き出しから割り箸を取り出した。
馴れ親しんだ、いやに科学っぽい香りがうす暗い台所いっぱいに広がった。

「箱」の中にいるときは、いつだって苦痛だ。掃除の時間も、綱吉にとっては苦痛だった。
反射的に目をつぶり、身体をぎゅうっとこわばらせた。しかし、それは無意味な動作だった。
乾いた笑い声。それから、後頭部に衝撃が走った。がしゃん、と音を立てて、つめたく汚れた教室の床には錆びついたちりとりが重力に従って落下した。
「掃除、頼むわ」
「彼ら」は口々にそう言った。
いつものことだった。
だから、綱吉は後頭部を片手で押さえながら、床に落ちたちりとりを拾った。何の迷いもなく。よろよろと立ち上がり、教室の後ろのロッカーへ歩き出す。生まれたときからそういう風に決められているように。
高校に上がればいじめなどなくなると思っていた。何故だか。
綱吉はそれまでもずっといじめられ続けていたから、結局それはただの希望的観測だったのだけれど。
高校での「彼ら」は5人でグループを作り、綱吉をいじめの標的にしていた。
「彼ら」ははじめ5人だった。
しかし、今となっては「彼ら」以外も全員「彼ら」と同じだった。綱吉から目をそらし、それぞれおしゃべりや携帯電話に集中しているように振る舞った。当然のように。それがルールだとでもいうように。
綱吉は、毛足がつぶれてほこりを抱いたほうきと、ちりとり用の小さなほうきを取り出した。なんとなく、どちらも自分自身のようだと思った。
教室の後ろから前までを丁寧に掃いていく。手を抜けば、「鉄拳」と称した制裁が待っているのだ。手を抜かなくても殴られることはあったが、手を抜いたときの方がひどく痛めつけられた。
「彼ら」はすりガラスの扉を一枚隔てた廊下で、大きな声でおしゃべりをしている。たまに「彼ら」のうちの一人が奇声を上げ、綱吉はその度にびくっと体を緊張させた。
「彼ら」は廊下から綱吉の様子をみている。すりガラスの扉は「換気のため」に開けられているのだった。
「彼ら」はみていないようで、目の端ではしっかりと綱吉を監視していた。チューイングガムを噛みながら、にやにやと笑いながら。
綱吉は、黒板に残った板書をきれいに消し、黒板消しに残ったチョークの粉をを専用のクリーナーできれいにしてしまうと、後はちりとりでほこりを集めて終了だ。
これで帰れる、綱吉がそう思ったときだった。ブレザーの胸のポケットが、震えだした。
綱吉のちりとりを持った手が止まった。「彼ら」もそれを見逃さなかった。廊下のおしゃべりが止まり、邪悪な目が綱吉を見すえている。

正門の前で待っています

綱吉は液晶からその文字を読みとると、引き寄せられるように運動場寄りの窓際へ駆け寄った。
そこからは正門は木々に隠れて見えなかった。そんなことはわかっていたが、そうしないわけにはいかなかった。
綱吉は何も考えずにほうきやちりとりを近くの机に置き、自分の座席へ急いだ。
「おい」
いつの間にか教室の中へ入ってきていた「彼ら」の一人が言った。綱吉は汚れたスクールバッグを手に、「彼ら」の制止を振り切った。
急がないと。頭にはそれしかなかった。
教室を飛び出し、水拭きされてすべりやすい廊下を走っていく。後ろから「彼ら」の叫ぶ声が聞こえる。廊下やほかの教室から好奇の目が寄せられた。
早く、早く行かないと。
昇降口で急いで靴を履きかえ、だだっ広い運動場を通り過ぎ、正門までの並木道を抜けていく。
後ろには目もくれず、正門まであとわずかというところまで全力で走った。息が切れて、そこからは脇に走る鈍い痛みをかばいながら歩くのがやっとだった。
「こんにちは」
綱吉が正門を抜けて数歩踏み出したところだった。
思わず心臓に手を当てた。どく、どく、と、ひどく動悸がしている。
「いい天気ですね」
青っぽいさらさらとした髪や、深い緑の制服や、凶暴さの漂うきれいな顔だちは、忘れるはずもない。
「どうして・・ここに・・・」
それは、なんの意味も持たない言葉だった。ただ、ごく小さくひとりごとのように響いた。
「学校が終わる頃に迎えにくると言ったでしょう。約束どおり、お迎えに上がりましたよ」
初夏のやわらかな風が吹き、並木の青葉が音を立てて揺れている。
「僕の大切なおもちゃ」
白い顔が微笑んだ。綱吉は、怖くなった。
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