或る画家の回想
□クリスという女性(ひと)
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そこには。
ひとりの女性が居た。前庭に設置された椅子に腰掛け、物憂げなまなざしで空を見上げている。
その女性は、美しかった。私が生涯愛した妻とは違う、一種芸術的な静謐をたたえた美貌の持ち主だった。
けれど白すぎる―――。私は、その病的な肌の白さに眉をひそめた。顔色も、悪い。
……だがその明らかに健康とは程遠い、白磁の肌の麗人を描きたい、と思ってしまったのは、芸術家の性(さが)、なのだろうか。
「………どなた?」
甘さの残る、だがけして不快感を与えない好ましい声が届き、私は我に返る。こちらを見つめる目に気づき、頭を下げた。
「………お許しください。不躾に眺めてしまいました」
貴族街に住んでいて、邸の規模から推測すると彼女もまた高位貴族なのだろう。私は宮廷画家になったとはいえ、今は後ろ盾もないただの子供だ。
これ以上、長居はすべきではない。
当時の私は絵以外に関心がなかったとはいえ、最低限の常識がそのような思考をさせた。
「待って、待ってください」
後ろ髪を引かれる思いで去ろうと背を向けた私に、声がかかる。
振り返ると、彼女は肩に掛けたストールを羽織り直しながら立ち上がり、私の前までやってくる。
間近で眺めると、やはり肌の白さが目立つ。彼女のなよやかな肩や手はとても優雅に見え、…だがそれ以上に私が目を奪われたのは、彼女の怜悧な色を宿す目、そしてさらりと揺れた黒髪だった。
「………」
「ごめんなさい、引きとめてしまって。………あなたのような子供とお話しするの、随分久しぶりだったから…」
そう言った彼女の顔に浮かんだ深い悲しみの表情に私は密かに息を呑む。
彼女は私の様子を察したのか、ふと笑みを浮かべ―――それもまたどこか疲れた笑みだったが―――先程よりも幾分明るい表情で私の肩に手を置いた。
「もし……時間があるなら私とお話をしてくれないかしら?」
「………えっ」
「お願い……他人と話すのは本当に…本当に久しぶりなの」
「僕は…」
ほんの少し、躊躇う。それはとても嬉しい申し出だったし、もしかしたらモデルになってくれるかもしれない、そういう淡い期待もあった。 だがここに長居をしても良いのか、という杞憂もまたなぜか心に浮かぶ。
「僕は、構いません。用事も特に無いので」
―――しかし誘惑には勝てなかった。それほどまでに彼女を描きたい、という思いが膨らんでいた。
はじめて、だった。自分がこんなにも描く対象を切望するのは。
私の返答に彼女は微笑み、私の手をとると、
「嬉しいわ…ありがとう。それなら、屋敷へ案内するわ」
邸へと誘う。
私は頷き、敷居をまたぐとまだ名乗っておらず、彼女の名前も知らないことに今更ながら気づく。
「僕は……ナディーン・フォスタースといいます…あの、貴女は……」
彼女は私の手をひき、屋敷の扉に手を掛けかけていたが、きちんと振り返り、私に目線を合わせた。
「ナディーンね…私の名前はクリス…よろしくね、ナディーン」
―――私はクリス・カトレットを愛していたわけではない。
だが私にとって彼女は幼い私に鮮烈な印象を植えつけた最初の女性であった。
私は生涯で三度、運命の人に出会うことになるのだが、その最初の人がクリス・カトレットであり、彼女と出会ったことにより、エミリオ・ジルクリスト、またの名をリオン・マグナスなる少年、そして私の生涯の伴侶と出会うことになったのである。
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