パンドラの夢

□小さな勇気
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「はぁ……」
トボトボと台車を押しながら肺へと引き返す道を歩く。正直今日はやる気が起きない。
赤血球AE3803番の口からは溜息ばかりが漏れ、アホ毛もヘニャリと萎れてしまっている。
何時もなら休憩のおやつは何にしよう、今度は何処の配達だろうと意欲に満ちているのに今日だけはやる気が出なかった。



理由は、ある。




彼女は今ある細胞に恋をしている。
トラブルに巻き込まれやすい彼女を何かと気に掛け、世話を焼いてくれる自分と違う異種細胞、白血球好中球課U―1146番、それが彼女が恋い慕う相手だ。


本来ならそれは極めて稀で、大多数の赤血球は白血球を始めとする免疫細胞を畏れている。
細菌を殺す場面に遭遇すればその凄惨な情景に恐怖を抱き、返り血で染まった真っ赤な姿に気が狂ってると敬遠し、遠巻きに眺めるだけで、白血球たちもその陰口に一々構っていられないとばかりに無視を決め込むだけ。


だけど自分はそれが嫌だった。
助けられた以上はきちんと礼を言っておきたい。感謝の気持ちを伝えたい。そんな一言から彼との交流が始まった。


仕事には常に真面目、意外に世話焼きのお人好し。堅物に見えるけど時々笑う顔が可愛い。こっそり冗談も言ったりするし、天然な所もちょっと抜けてて良いなって思う。
片目を覆う白髪も、上等な黒檀の様な瞳も、手袋に覆われた温かな手も素敵で、恋となるのに時間は掛からなかった。




初めての恋、世界が忽ち輝き、色づいて見える。
貴方がいれば、何時ものアイスも最高級のそれに変わるし、何気ないお喋りだって甘い響きが紡ぎ出されるよう。



嬉しくて嬉しくて、直ぐにお世話になってる憧れの先輩と可愛い優秀な後輩にこの事を伝えた。
きっと2人共いい人達だから祝福し応援してくれる。そう信じて疑わなかったのに……。




「……何で分かってくれないのかな……」




無情にも返ってきた言葉は……直ぐに忘れろという残酷な言葉。
好中球なんて冷血で殺戮を繰り返す恐ろしい血球だ。自分達とは違うと彼女達は吐き捨て一概に反対したのだ。



……正直に悲しかった。
共に仕事をする仲間達に好きな人を正しく理解されず否定されるのが、こんなにも悔しくて悲痛な事だと知らなかった。
だけれど、彼女達の認識は普通の赤血球や一般細胞がごく普通に持っているものと何ら変わりない。寧ろ自分がイレギュラーなのである。
そんな彼女達に自分の感情を分かれというのが難しいのかもしれない。
でも……。








「そんな簡単に諦められないよ……」
「何しみったれた顔してんの?」
「え?」
塞ぎ込んだ顔を上げると目の前に彼と同じように片目を隠した美しい黒髪の女性が立っていた。
片手に鋭利なサーベルを持ち、露出の多いタンクトップとショートパンツからは惜しげも無くその逞しい肉体美が見て取れる。
赤血球には見覚えがあった。
確かあのがん細胞が現れた時に彼と共に討伐に当たった、NK細胞と呼ばれていたリンパ球だ。
転移寸前で集まって貰った免疫細胞達と協力し、無事に撃退出来たのは記憶に新しい。
この時先輩に余計な事をとしこたま怒られたが、転移するリスクを考えたらあの時の行動は決して無駄ではなかったし、後悔もしていない。確かに本来の業務とは無関係だが、あのまま行けばこの世界が滅んでいたのだから、自分達も全くの無関係とは言えないだろう。



しかし別にウイルス等に感染していない自分に免疫細胞が何の用だろうか。
「あ、あの……」
「アンタ、あの時他の奴等呼んでくれた赤血球でしょ?」
「あ、はい」
「いっぺん話してみたかったのよねー。だってわざわざ免疫細胞集めて呼んでくる赤血球なんて正気? って普通思うじゃない?」
その通りだと思う。少し変わった出来事があったからと言って、通常の赤血球なら大して関わり合いの無い免疫細胞に相談するなんて無いだろう。実際あの時他の赤血球は可笑しいとは思いながらも、免疫細胞に通報したりはしなかった。
後から聞いた話だが、がん細胞は炎症性サイトカインと呼ばれる情報伝達物質をしきりに出して多くの注文を出し続けるらしい。その注文書は一般細胞たちが普段出すそれと全く変わらないので、赤血球たちには見分けがつかない。だからあの時誰も通報しなかったのだ。



だけど自分が敢えておかしいと感じたのは、そんな異変に真っ先に気付くであろう彼がいなかったから。
恐らく彼の方がそういう事に敏感だろうに辺りに見当たらず、探してはみたものの何故か見つからない。
もしかしたら先に異変に気付いて、何らかの行動を単独で取っているのかもしれない。彼はこの世界の平和の為によく無茶をするから。
直感でそう感じ、慌てて近くを通りかかったマクロファージに声を掛け、大量の栄養素がある一カ所に運ばれている事を知らせ調べて欲しいと頼むと、幸いあっさり快諾してくれた。
調べて貰えばやはり通常ではおかしいと分かり、ギリギリで援軍が間に合ったのだ。


あの時彼と戦っていたのがこのNK細胞で初対面ではなかったが、事態が事態だったのでこうしてゆっくり話等した事は無い。
「アンタ、肺への帰りでしょ? 折角だし、一緒にお茶しない?」
「あ、はい、良いですよ」
「そこのベンチで座ってて。何か取ってくるわ」
颯爽と身を翻し、近くのドリンクバーに向かっていく。
NKの姿を見て近くにいた赤血球がビクリと肩を震わすが、本人は至って平然としている。
2つ紙コップを手に戻ってきて、一方を赤血球に手渡した。
「はい」
「ありがとうございます」
「確か赤血球って甘いの好きなのよね? ココアで良かった?」
「はい! 嬉しいです!」
赤血球の笑顔にニッと口の端を上げて微笑むと隣に腰掛けた。
流石鍛えているのか引き締まった肢体はしなやかで、メリハリのハッキリしている体つきは酷く格好良い。
かと言って女性らしい色気が艶やかな唇からも醸し出されていて正しく綺麗なお姉さんという感じだ。
マクロファージも制御性T細胞もまた美しさが引き立つ美人だが、また違った孤高で野性的な魅力を持った女性といった所だろう。
こっそり紙コップ越しに観察していると、NKの切れ長の瞳が向けられる。
「自己紹介がまだだったわね。アタシ、NK細胞よ」
「私は赤血球AE3803番です」
「よろしく。あの時はありがと。正直助かったわ。あのまま転移してたらあちこちに散って対処しようにも間に合わなかったかもしれないし」
「いえ、お役に立てて良かったです! もしかしたら余計な事しちゃったのかなとちょっと考えちゃったので……」
半人前の癖にと叱られた先輩の言葉が蘇り本心では少し不安だった。
彼はああ言ってくれたが、他の人から見たら赤血球の癖に余計な事をと思われなかっただろうかと心配していたのだが、彼女の言葉が本当ならやっぱりあの時の判断は間違っていなかったと確信する。




「まあ確かに一赤血球としては出過ぎかもしれないわ」
冷静なNKの評価に少しだけグッと息を詰める。それともやっぱり間違ってただろうか。
「だけどね、言われた仕事だけ100%こなせたって評価はされない。言われた以上をして初めてコイツは出来る奴だって言われるの。だからアンタは間違ってない。自分があの時出来た最大限をしようとしたんだから」
「NKさん……」
「アタシの仕事なんかはさ、アンタ達みたいに行き先とかが具体的にやる事が決まってる訳じゃないのよ。ただ見回ってヤバい細胞を殺れ、それだけ。自分で判断して、的確に攻撃しないといけないから結果が全て。未熟だった頃は感染してない細胞まで手を掛けそうになって、先輩に叱責されてたわ」
「NKさんにもそんな時があったんですね……」
他細胞の未熟な頃を聞けるなんて滅多に無い。これはいい話を聞いたと赤血球は嬉しくなる。
こんなに頼もしいNK細胞だって初めから強かった訳ではない。自分も今は半人前と言われているが、努力を積めば彼女の様な立派な一人前になれるだろうか。




「ねえ」
「はい?」
「あの時アンタがああしようと思ったのは、やっぱりあの好中球のため?」
「えっ!?」
言い当てられてアワアワと慌てるがNKは面白そうにニヤリと笑うだけ。見透かされているみたいで妙に恥ずかしい。
「だと思った。アンタ、アイツと何か仲良いみたいじゃない? 珍しいのね、好中球なのに怖くないの?」
「はい! 寧ろ私がお手間を取らせてばかりで……良く細菌に襲われる私を助けてくれたり、道案内してくれたりして……私全然白血球さんに頭上がらなくて……だからちょっとでもご恩返し出来たらなって思ったんです。と言っても、私がどうこうは出来なかったんですが……」
「アンタは赤血球なんだから、戦うのはアタシ達の役目よ。アンタ達が戦えたら、アタシ等の活躍する場が無くなるじゃない」
「そんな事無いですよ! きっとそうなってもNKさんみたく強くなれないですし!」
「ふーん……カワイイ事言ってくれるじゃない。アイツが気に入る訳だ」
「え?」
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