ステキな作品

□堕ちていく
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「もうすぐ誕生日だったね。頓田くん」

「はい、でももう喜べるような年齢はとうに過ぎてしまいました」

「今年もいつものところを予約してあるから」

「毎年そんなことしていただかなくても・・・・」

「いやいや、今年はまた特別だよ。何せ頓田くんには一番の厄介事を頼んでしまっているからね」

そう穏やかな笑顔を浮かべるのは私のボスである跡部社長だ。
この笑顔だけを見ていると本当にやり手な社長とは想像もできないけれど、でも正真正銘今の日本で一番有名な社長といえる。
経済雑誌に載らない日はほとんどといってないし、近くで仕事をしていると仕事に対する厳しさとかをひしひしと感じることができる。
ここぞというところは絶対に逃さないし、その手腕は誰にも引けを取らない。
そういう社長の元で働けるのは本当に喜ばしいことだし、頑張ってるって実感も出来るから遣り甲斐を感じることもできる。
自分自身でも頑張ってるから社長の信頼を得てるのは嬉しいんだけど。
この歳になっての異動は少々骨が折れると感じてしまう。
こんなことを考えてしまうのはやっぱり私が若くないからかな。
仕事の内容は変わらないはずで、私は来週から専務の秘書になることが決まっている。
専務というのは、社長の実の息子さんだ。
何度も顔を合わせたことはあるけど、何でか向こうは私にいい印象は持っていないようで。
そう悪い印象を与えたつもりはないのだけれど。
ただあまりの美形に初めて会った時ポカンとしてしまったことはある。
もしかしてそれが悪かったのだろうか。
いくら考えても分からない。
だけどはっきりいって嫌われているということは自ずと分かってしまうもの。
そんな人の秘書を務めるのはさぞ骨が折れるだろうと考えると、このまま社長秘書のままでいたいと思ってしまう。
絶対に信頼関係というものを築けるとも思えない人の秘書は、きっと今まで以上の苦難を私に強いるだろう。











堕ちていく











専務は景吾さんという。
今年25歳になった。
その若さで専務というのは異例の大抜擢だし、初めは社内でも賛否両論があった。
そりゃそうだ、これまでこんなことはなかったのだから。
社長の息子だからと陰口も色々とあったようだし、実際に私も聞いたことがある。
もちろん父親である跡部社長も聞いたことだろう。

「社長の息子だからって専務にするとは社長も自分の息子は可愛いと見える」

「社長もヤキが廻ったな」

「あんな若造に何ができる」

聞いてるだけでうんざりするような言葉の数々に、それでも社長は何も言わずただ傍観しているだけだった。
今から考えると景吾さんのことを信じていたんだろう。
景吾さんなら自分の力で何とかするだろうって。
その社長の考えは正しくて、景吾さんは本当に優秀すぎるくらい優秀で社内の負の印象を自分の実力で跳ね返した。
そういうところは本当にすごいと思う。
まだ大学を卒業して3年足らずだし、景吾さんと同じような年齢の人たちはどこか甘えたようなところもある。
そういう私も25歳の頃はそうだったような。
秘書課に配属されて右も左も分からなくて、何度も叱責を受けていたな。
何でか社長の秘書に命じられて、それでも何度も失敗する私に根気強く仕事を教えてくれたのは他でもない跡部社長だ。
そういった面では跡部社長は恩人といってもいい。
仕事が面白くなって同期の人間はほとんど寿退社していったけど、私は今もこの会社にいる。
辞める予定もない。
こんなこと言うと何て寂しいと思うかもしれないけど、でも私は満足している。
恋をしなかったわけじゃない。
ただ所謂結婚に結びつかなかっただけだ。
今ではもう秘書課のお局さまと言われるようになってしまった。
私は今度の誕生日を迎えると30歳、世間で言う三十路だ。

「頓田くん、どうしたんだ?」

社長に呼ばれてハッとする。
随分と考え込んでしまっていたようだ。
いけない、今は仕事中なのに。

「申し訳ございません、社長」

「いや、いいんだよ。何しろ景吾の相手は疲れるだろうしね」

社長が社内で自分の息子のことを名前で呼ぶのは本当に珍しいことだ。
絶対に私の前でも『専務』と言っていたのに。

「そういうわけではないんですが」

「正直言うとね、本当は今も少々迷っているんだよ。ずっと私の秘書でいてくれないものか、と」

だったら何故このままでいさせてもらえないんだろう。
私はこのままがいいのに。
でも社長には社長の考えというものがある。
それを詮索はできない。

「ただ景吾もゆくゆくは社長になる身だからね。頓田くんのような優秀な秘書がアイツにも必要だと思うから。
 専務と社長というのは雲泥の差だ。今はまだぬるま湯にいるが、今後はそうはいかない。そういった面で泣く泣く君を景吾にくれてやるんだ。
 仕方ないね、こればっかりは」

知りたかったことをさり気なく教えてくれる社長の顔は、いつもの社長の顔というよりもやっぱりどこか父親の表情のようだった。
専務という立場が決してぬるま湯だとは思わないけれど、社長という立場はそれ以上の重圧があるのだと思う。
昔、いい具合にほろ酔いになった社長から聞いたことがある。
小さい頃から帝王学を叩き込んで、周囲の期待以上の成果を上げた息子のことを本当に可愛がっているということを。
ただ如何せん社長という身で忙しくて、遊びたい盛りに随分と寂しい思いをさせてしまったことを申し訳なく思っていることを。
心から息子を愛し、信頼しているということを感じさせる社長の言葉をその時聞いて、随分と羨ましい話だと思った。
私は両親とも小さい頃に失くして、祖母に育てられた。
だからといって愛情を貰わなかったわけではないし、十分愛して貰っている。
その祖母も最近は身体を悪くして入退院を繰り返すようになった。
歳も歳だし仕方ないけど。
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