文章
□傘がない
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雨、雨、降れ、降れ。もっと降れ。
わたしの良い人、連れてこい。
:傘がない:
今日は一日、朝から雨だった。
曇った灰色の空、落ちてくる雨の冷たさ。陰鬱とした雰囲気を嫌でも作り出す雨が、わたしは大嫌いだ。
こんな日は、仕事は適当に切り上げてさっさと帰るべきだ。
そういうことで、大雨の中、車に乗り込みエンジンをかけた。
自宅近くまで帰ってくると、車の通りも少なく、雨だからか人通りも少ない。
雨に濡れることがなければ、こうやってぼうと運転しながら、ステレオも消音して車の中で聞く、雨が屋根を打つ音は嫌いじゃないかもしれない。
ただ、ひたすらに、雨は車の屋根を規則正しく打ち付ける。
雨の音とエンジン音の響く車内では、わたしもそれらに同化してしまう気がしてくる。
雨の音を漠然と聞いていると、ふとあることが頭をよぎった。
そう言えばこんな雨の日だった気がする、あの男に会ったのは。
その日も一日、朝から雨だった。
連日の雨で着たい洋服はまだ乾いていないし前の晩泣いたせいで目はぱんぱんに腫れているし低い気圧のせいで頭痛も止まない。仕事も仕事でうまくいかないしこんな時に甘えれる相手もいない。
考えてみれば、昔から雨の日には、ろくなことがなかったような気がする。
傘を持ち歩くのを厭うわたしではあったが、流石に朝から雨となっては持って出ないわけにもいかなかった。そしてそんな傘を、どこかに置き忘れてきた。
なんてことだ、人生本当にどうしてこうも嫌なことばかり続くんだ。
もう下ろしたばかりのスーツが駄目になろうがどうでもいい。もうこの雨のなか、濡れて帰ってやる、と駅から一歩、踏み出した瞬間の雨の強さが増してきた。そしてそのうちに、雨宿りを余儀なくさせられるほどの豪雨になった。
本当についてない。これでは前が見えない。
仕方がないので、古い煙草屋の屋根の下で雨宿りを決めた。
と、そこに、
「傘、忘れたの?」
突然頭の方から降ってきた言葉に身体がびくついた。
気が付かなかった。
足元しか見ていなかったのか、よそ事を考えていたのか。
数歩となりに、全身真っ黒な格好をした男が立っており、どうやらその男から先ほどの言葉は発せられたようだ。
端整な顔をしたファー付きコートのその男性は人のよさそうな笑顔を浮かべている。
しかしこの状況下、その笑顔はそれはもう似つかわしくなく、得体の知れない怖さがこみ上げた。
「…わたしですか」
「はは、面白い切り返しだね。君以外にだれが居るっていうの」
「…傘、は、どこかに置いてきてしまったみたいで」
「そう。俺はね、雨が大嫌いなんだけどね」
灰色の空は、いつの間にか真っ黒になっている。
その男は、そんな空を慈しむように仰ぎ見る。
そんな様子をわたしはぼうと、一つの絵を見るように眺めていた。
そうして、わたしのほうを振り返り、にこり、と微笑む。
「たまにそんな雨に、降られたくなるんだよね」
そして瞬間、わたしの両の眼を鋭く捕えた。
「君は?そんな全てが嫌だ、みたいな顔して、雨に打たれたくなったの?」
男の両の眼にはわたしが映り、捕えられている。
「雨が全てを流してくれるとでも思った?」
足の先から戦慄が走り、わたしは立ちすくんでしまった。
見ず知らずのこの男に恐怖していた。
なんだか怖い。無性に怖い。帰らないと。この場から立ち去らないと。
竦んだ足は、思うように動かない。
先に行動に出たのは、目の前の男だった。
「まあ、どうでもいいんだけどねそんなこと」
じゃあね、と言い残して、男は降り止まない豪雨の中へと、再び歩き出した。
こんな大雨なのに、
「…走らないんだ」
そんなこともあったな、と、ぼうと回想を巡らしながら車を走らす。
住宅街の道路には、やはり走っている車も帰路につく人もみあたらない。
ふと、視界に全身黒い服をまとった細見の男がちらついた。
まさか。
錯覚かもと思い目を凝らす。
間違いない、あの男だ。
認識した途端、急に心拍数が高くなってきた。緊張する。顔が紅潮してきているのがわかる。
無意識に、こちらに向かって歩いてくる男の隣に車をつけ、車内に雨が入り込もうがお構いなしに窓をあけた。
「…なにしてるの」
あろうことか、話しかけてしまった。
男は一瞬怪訝な顔をした。
それもそうだ。向こうがわたしを覚えているなんて保証はなかったのだ。
なのに話しかけてしまった。
不審者と思われても仕方がない。どうしよう、怪しいものじゃないですなんて怪しすぎる。
紅潮した顔は、今度は青くなっているかもしれない。
「…ああ、君か」
男はわたしを覚えていたようだ。訝しげに寄っていた眉間の皺は綻びた。
そのことに安堵し、ほっと息を吐く。
そして、久しぶりに会えた、と心は高揚している。
あの時覚えたはずの恐怖は、最早どこかに行ってしまっているから不思議だ。
「忘れた」
「え?」
ぽつり、と呟いた言葉は、雨の音に妨害され、うまく聞き取れない。
「傘。忘れたんだよね」
雨に降られるのが好きだと言っていた男は、傘を忘れたという。
「…雨に打たれたかったんじゃなくて?」
「そういやそんなことも話したっけ。…うん、今日は、傘を忘れた」
忘れたと笑う。
とことん不思議な男だ。
そんな男の名前すらしらないというのに。
「乗ってく?」
わたしは何とも大胆な誘いをしていた。
「いいや」
そう言って、微笑んだその男は再び、漆黒の雨の降る路地裏に消えていった。
わたしは、しばらくその様子をバックミラー越しに見届けた。
そうして、ゆっくりと瞬きをし、ミラーから視線を外し、再び車を彼とは反対方向へ走らせた。
終。
101105
臨也は雨が嫌いだと思う。
冒頭は、某演歌より。結構好き