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□夏の涙
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あの日も暑かった。身体の水分を全て抜き取られてしまうんじゃないかと思うくらい泣いた。
そのままひからびてしまいたいとも思った。
そう、今もこれからも、こんなに想い焦がれることはもうないと思う。


【夏の涙】


「お疲れ様でした、先生。今回作も大反響ですよ。先生に悲恋の作品を書いていただくと、なんかこういつも反響が大きいです。」
「そうか…。」
「描写が読者の心を惹き付けるんでしょうね…でもまさか先生、これって実体験とかじゃないでしょうねぇ?」
「……あながち嘘でもないよ。」
「えー、本当ですか?それってどんな恋を…。」
「山崎くん、せっかく書き上げたところなんだ。早く原稿(そいつ)を編集部へ持っていったらどうだ?」
「あ、そうでした。」
その若者は原稿を鞄にしまうと立ち上がった。
「じゃ、失礼しますね。お茶、ごちそうさまでした。次回作も楽しみにしてます、土方先生。」
そう言うと、彼は足取り軽くに部屋を出ていく。
俺は彼の去った方向をしばらく眺めていた。

眼を閉じるとあの人の声が聞こえ、あの人の背中が、あの人の笑顔が見える。
本当に暑かったなぁ…あの夏は…。



1941年12月の真珠湾攻撃以降、日本の優位に思えた戦況は1年足らずで形勢が逆転し日本軍は苦戦を強いられていた。
しかし人民はその戦況を知ることなく、日本國の勝利を信じ日夜お國のために兵役を努め、貧困に耐えていた。
そんな折、俺はしがない物書きをしていた。
あまり身体が強くなかったため、父の薦めもあり教職の免状をとって教鞭をふるっていた。
元々、物書きには憧れており、たまたま応募した文学雑誌で入選を果たしたので、そちらを主な仕事にし生計を立てていた。
戦況が悪化し、友人が次々と徴兵され戦死していく。
なんともいけ好かない世の中になってしまった。
しかし当時、そんなことが言えるハズもなく、お國の役に立たない俺は借家の一室でこもり、ペンを走らせていた。

1944年の夏、今まで担当していた男が家庭の事情で担当を降りることになった。
彼は田舎へ帰ることになり、新しい担当を連れ挨拶に来たのだ。

「で、先生こちらがこないだお話した近藤くんです。」
「はじめまして、近藤勲と申します。先生の作品はいくつか拝読させていただきました。
今回担当になれて光栄です。」
歳は俺より3歳ほど上らしいが、がたいのいい身体のワリには人懐っこい笑顔を魅せる少年のような男だった。
会って間もないのに、人の善さがほとばしるほど感じられる。何とも不思議な男だ。

「いやー、編集部の女の子たちに騒がれましたよ…美男子の先生の担当の座はなんせ取り合いなんで…。
しかし本当、お噂通りですね。でもこの伊東なんかもね…。」
「近藤くん!余計な話はいいから…。」
「あ、ごめん。」
俺の担当をしていた眼鏡で痩身のこの男も世で言う美男子の分類なんだろう、と感じていたが、近藤氏は全く正反対のタイプだった。
いつも寡黙で落ち着いた感じの伊東氏が、この男相手にあたふたとしているのが新鮮に思え、2人のやり取りを見て心が和んだ。

「じゃ、先生お世話になりました。近藤くん、後はしっかり頼んだよ。」
「はい。」
そう言い残すと伊東氏は部屋を去っていった。



残った近藤氏は、突然立ち上がると台所へ向かう。
「あ、近藤さん、どちらへ?」
「え?あ、お茶でもお入れしようかと…ウロウロされるのお嫌いですか?」

まぁあまり好きではない。でもなんだろ…別段嫌な気がしない。

お茶を入れ戻ってきた近藤氏は、手持ちの袋を探ると中から竹に入った水羊羮を出してきた。

「これ、俺の好物なんですけど、先生もお一ついかがですか?」
笑顔で差し出されると、呆然としながらもそれを受け取った。しかし彼はそれを気に止める様子もなく、自分の話や世の中の話を延々とする。
あまり内容は覚えてないが、彼が楽しそうだったことだけは記憶している。

「先生?」
「え?」
突然呼ばれ、俺は我にかえった。
「なんか俺ばっかりベラベラ話してすいません。」
「あぁ…いや、いいですよ。伊東さんは寡黙な方だったので、慣れてないだけですから…。あなたはなぜ編集のお仕事を?どちらかというと体育会系な印象を受けますが…。」
「よく言われます。でも実はこう見えて文学少年なんですよ。」
少年…?こんなむさい男が?俺は思わず吹き出した。
「アンタが、少年って…ははは。」
近藤氏は俺を見てきょとんとしていたが、一緒になって笑い始めた。

「そうですね…少年は、ないか。ははは。」
久しぶりに声を出して笑ったなぁ…最近世の中がすさんでいるせいか、笑うことも忘れてたよ。
隣にいるこの男の持つ何かのおかげかもしれない。
日だまりのような…そう太陽のような男だと思った。
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