物語の続きを

□第二章
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*









くすくす。



「ふふっ……」



くすくす。



「……うふふ」



くすくすくす。



「ぷっ、あはははは……」



場所は正門の真逆にある、庭に突き出す石のタイルを敷かれた床のテラス。

テーブルの反対側、ダージュの向かいで、屋敷の主人であるソフィエルは先程からずっと軽やかに笑い続けていた。

止まらないくすくす笑いを腹部を抱えて何とか宥め、けれどもすぐに吹き出して笑い出す、それの繰り返し。

笑い声の一つ一つが、零れる度小さな花がぽわぽわと現れるかのように華やかだった。

誰かの笑顔を見ているのは嬉しいこと。泣いているくらいなら、笑ってくれるほうがずっといい。けれど。



「笑いすぎだよ……ソフィ」



ずっとそれを見ているのは複数の意味で居心地が良くなくて、紅茶のカップを両手で持ったまま椅子の上で小さくなり、やはり複数の意味で顔を赤くしてダージュは自分でも情けないほどもごもごと言った。

ダージュより年上の十九歳であるらしいのに、ソフィエル――ソフィは、リリスと変わらない幼さのあどけない仕草で、ココア色の瞳に滲んだ涙を指で拭った。



「ふふ……ごめんなさい。だって、あんまりにも可笑しかったものだから。ねえ? グラヴェルさん」

「左様でございますな」



ダージュの侵入を発見した使用人の男性――グラヴェルが、ソフィの座る椅子の半歩斜め後ろで立ったまま、表情らしい表情はなく答えた。

ソフィは続ける。



「考えた人、すごいなあ。聖水の効かない、銀色の羽の、すっごく丈夫な、しかも女の人の吸血鬼かあ。……まるで絵本のお話じゃない?」



ふふ、と今度は色っぽく笑ってみせる。印象の年齢がアンバランスになって、茎の長い花が風に揺れるようにぐらついた。だがぐらついたのはそれだけではない。

ダージュの気持ちもまた。



「怒って……ないのか? こんな噂、流されてるっていうのに」



良心、とか、罪悪感、などという形のある感情ではないかもしれない。そんな強いものとはほとんど縁もなく生きてきた。

けれども吸血鬼のこんな正体を知ってしまって、まるで胸が平らな板で押されるように痛んだのを、確かに感じたのだ。



「なんていうか……ごめん。信じてたとか信じてなかったとかじゃなく、自分の意思とか言われたからとかじゃなく……考え無し、だった」



けれども、その吸血鬼は。



「あら、どうしてダージュ君が謝るの?」



言って、首を傾げただけだった。

月明かりに青く照らされる真っ白な微笑みを、金色の髪がふうわりと滑る。



「そんな噂、気にしてないわ。もともと私たちが怪しいのは本当のことだしね。いいじゃない。男の子なんだから、一度は真夜中に親に内緒で家を出て謎のお屋敷に忍び込むくらい」



そしてまた、くすくすと笑う。聖水も飲めちゃうレアな吸血鬼がいるんだからね、と言い足して。



「だから、俺は別に信じてたわけじゃないって。幼馴染のリリスって女が、無理矢理……」

「まあ、女の子の頼みなの? それなら尚更頑張らなくちゃいけないじゃない。素敵だなあ、お姫様を手助けする騎士様って」



姫や騎士なんてものじゃないし、そういうの尻に敷かれるって言うんだけどな、という言葉は、自分の首を絞めることになるのでダージュは紅茶で飲み下した。

それに、褒められるのは悪い気分ではないし。



「その子って、すごく仲がいい子なの?」

「え?」

「リリスちゃん、よ。可愛い名前ね」



興味津々の表情で、ソフィはぐっと身を乗り出した。ふわと花のような優しい香りが鼻孔をくすぐって、思わず後退るように顔を背ける。



「……別に、そういうわけじゃないよ。ただ、一番弱みを握られてるって言ったらそいつだけど」



例えば、今日のことでもその弱みで脅されたのだ。

あらそう忙しいの残念だわなら明日の朝には町中の人が貴方が昔肥料の牛糞のバケツに足を突っ込んで抜けなくなったこと知ってるのかもしれないねそれじゃあたし行ってくるね、といったふうに。

愚痴っぽい男は情け無いと思う為にそこまでは言わないが、やはり言葉だけでは伝わらないらしい。ソフィはテーブルに頬杖をついて、微笑ましげに笑った。



「うふふ……照れなくてもいいのに」

「照れてなんかいません」

「照れた人は照れましたって認めたりしないと思うけれど?」

「なら本当に照れてないならなんて答えたらいいんだよ」

「照れてない顔で言うことね。正直者のダージュ君?」

「ぐっ」



喉の中で紅茶が急に固形になった、ように感じてダージュはむせ咳き込んだ。乾いた咳と湿った咳を繰り返して、正常な呼吸を取り戻せば視界は涙でぼやけていた。

けれども、そんな状態をどこか楽しげに眺めているソフィが、やわらかい声でダージュに言う。

まるでそれは、どこか独り言のようでもあったけれど。



「でも……大切にしなきゃ駄目だよ、そういう人。近くにいてくれる人。きっと、誰より自分のことをわかってくれる人だから」

「ソフィ……?」



木製のテーブルにかけられたクロスとほとんど変わらない、日焼けという言葉を聞いたことがないのではないかと思う真っ白な手の指先が、紅茶のカップの淵をなぞった。

謎かけのようなその言葉が、くるり、くるり、ダージュの思考に絡む。カップの淵のように終わりのないレールを歩いて、くるり、くるり、回った。

すると、突然に。



「無礼をお許しください、ソフィエル様。この痴呆老人に謝罪の機会をくださいませ」



それまでほとんど口を開かなかったグラヴェルが、ソフィの向かいに移動して深く深く頭を下げた。



「申し訳ございませんでした」

「……どうしたの? グラヴェルさん」



急に自分に対して背中を地面と平行にしたグラヴェルに、頭を上げてと慌てるより先に、きょとんとするソフィ。

ダージュはグラヴェルの斜め向かいにいることもあり、もぞもぞと身をイスに寄せてその謝罪の行く先が自分に被らないようにした。

グラヴェルはそのままの姿勢を少しも崩さず保ったままで、重々しく言う。



「わたくしめは、噂というものにとんと疎くございます。貴女に少しでも早く噂をお伝えすることができていたなら、それを抑止することも或いは……」



グラヴェルの言葉に、自分以外を責める響きはなかった。少なくとも、この場にいる自分以外を責めるような響きは。

けれどもその言葉は、ダージュの胸をちくりと刺す。

わかっているのだ。噂を聞いたところで、ここは小さな町。流れた噂はあっという間に知れ渡って、打ち消すことなど不可能だということは。遠回しな言い方は、誠実な使用人の優しさか。

自分が仕える者に対する悪口を、全く知らずに無縁でおかせておくことができなかったと悔いている。

けれどやはりソフィは、ダージュからのものと同じくその謝罪に対しても、目を真ん丸にして首を傾げただけだった。



「あら、どうして謝るの? ――吸血鬼に咬まれた吸血鬼の奴隷さん」



悪戯っぽく付け足して、そしてまたもやくすくすと笑った。



「もしかして、今の話を聞いて妬いちゃった? 私がダージュ君を羨んでるって思ったの?」

「そ、それは……」



言いにくそうに言葉を濁すグラヴェル。ダージュは大人しく2人を見守りつつも、へえ、と小さな感嘆の声を漏らしていた。グラヴェルさん、割とこんな性格だったんだ。

そしてソフィはというと、やはり変わらぬ笑顔で笑っていた。空に出ているのは月なのに、どうしてなのかとても眩しい。

真っ直ぐに見ているのが、少し難しいくらいに。



「心配しないで。グラヴェルさん、貴方は私の大事な人よ。――なあんだ、わかってくれてると思ったら、案外、ダージュ君と似てるのかもね。新たな発見だわ」

「え」



不意に自分の名前が出て、ダージュはどきりとして危うく紅茶のお供に出されたスコーンを紅茶漬けにするところだった。

これ以上の危険は冒せないので、カップをテーブルに置く。



「俺が、何?」

「不器用で優しい。自分より相手のことを優先。自分のことに胸を張るほどの自信はなくて――自分に対する気持ちに鈍感」

「ソフィエル様」



聞いているのを堪えきれなくなったように、グラヴェル。

ダージュはというと、言葉も出ない口をぱくぱくさせて顔を赤面させるしかできていなかった。



「あら、違っていて? 反論ならお伺いするけれど、私、負けるつもりはなくてよ?」



フフ、と妙に似合う悪女のような笑みを浮かべて見せ、芝居がかった仕草で髪をさらりと肩から片手で背中に払う。

思わずダージュはじり、とイスごと後退ったが、グラヴェルはごほんと咳払いをして元いた位置に戻ることでソフィの勝利を認めた。

けれどやはり、ソフィはソフィでしかないらしく。そんなグラヴェルを椅子越しに振り向いて、今度はにこりと、子供のような笑顔を見せた。

ダージュはここでようやく、ソフィが浮かべる笑顔の多さに気がついた。今まで気付けなかったのは、それがあまりに、見過ごすほどに自然であったからか。



「お願いだから気にしないで、グラヴェルさん。私と貴方は共犯よ?」

「――かしこまりました」



グラヴェルは一呼吸おいて後、変わり者の女主人に深く深く慇懃に、身を折って頭を下げた。ぴしりとした揺るがないその姿勢が、素人のダージュにさえ強い忠誠心と信頼を感じさせる。

その二人の姿はまるで絵本の挿絵のように完成したものを思わせて、ダージュは一瞬、自分が座るこのイスは必要ないのではないかと思った。

そんなことを言ったらまたソフィがあの悪女の笑みを浮かべそうな予感がしたから、そんなことはおくびにも欠伸にも出さなかったけれど。



「……」



グラヴェルが焼いたのだというスコーンをもぐもぐ咀嚼しながら、ダージュはソフィを改めた気分でまじまじと見つめた。

吸血鬼を探しに来て出会ったのは、吸血鬼とは程遠い一人の女性。このソフィをみんなして吸血鬼だと噂していることが、今更ながらにあまりに馬鹿らしい。

けれど、ダージュは噂を最初に考え付いたどこかの誰かを、密かに褒める気持ちでもいた。

内容の殆どは全く持って意味を成さないけれど、ただひとつだけ、事実を見たように正しかったから。










―――吸血鬼の正体は確かに、美しい女性の姿をしていた。









「それにしても……」
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