物語の続きを
□第九章
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「あら、遅かったわね、ダージュ。おかえり。顔色が悪いけれど、冬を呼ぶ雨にたたられたの?」
「それだけならどれだけいいか……酒場にするんじゃなかった……」
酒は一口も口にしていないのに、酔ったように頭が痛いような気がした。
ずっと耳元で酒臭い言葉を喚かれたら、元気いっぱいでいる方がおかしいかもしれないけれど。
どさりと椅子に腰を下ろしてうつ伏せる。ぐわんぐわん、と頭が揺れるのがわかった。
「酒場? 何してたの? ピクルスはまだあるのに」
「今さ、商人来てるだろ。聞きたいことの代わりに宿に案内した」
「あらそう。いいことしたじゃない」
ぐったりと疲れたダージュに苦笑しながら、母親は温かいシチューの皿をダージュの目の前に置いた。
向かいの席にもう一つ皿を置き、横の席には空の皿を置いて、椅子に座る。
「今日は、パンは重ね縫いで時間がかかって焼けなかったから無し! お水は外が寒いので欲しかったら自分で汲みに行くこと! 以上、いただきます!」
「いただきます」
忙しかった母にパンの文句を言うつもりは無い。
むしろ、いつもより遅くまで帰ってこなかった自分を待っていてくれて、温め続けてくれていた湯気を立てるシチューは疲れきった心身にあまりに有難かった。
「商人さん、どうだった? 母さんも一回見に行ったけど、若くてハンサムで素敵よねえ」
「見に行ったのかよ」
「そりゃあ行くわよ。お金に余裕が無いから何も買ってあげられなかったけど。それで? あんたは何を話してきたの?」
「それは……」
軽い雰囲気で聞かれたことに、答えるか否かを迷う。
けれどもダージュは、ちらりと空の皿を置かれた席を見てから、口を開いた。
「いろいろ。この町の歴史とか――戦争のこととか」
「……!」
その反応を見逃しはしなかった。
もしかしたら詰問のようになってしまうかもしれないと気付いて一瞬躊躇うものの、それでも続ける。
「あのさ、もうそろそろ教えてくれてもよくないか? 母さんさ、俺が父さんのこと一度だけ聞いた時、なんて言ったか憶えてる?」
「……貴方のお父さんはね、運悪く、特別寒くなった日に薄着で寝てて亡くなったの」
まるで台詞を決めていたかのように、母親の言葉はダージュが記憶していた、全くその通りだった。
ごくりと唾を飲む。
「その特別寒くなった日――戦争、だったんだろ? 薄着で寝るしかなかったから、だから夜を越せなかった。石像は壊されて国だった名残は何もないけど、母さんたちの中には確かに残ってる。だから俺たちが悲しまないように、みんなして事実を隠すことにしたんだろ? 運が悪かったのは、偶然王族がここに目をつけたことで、どうしようもないことだったから」
貴方のお父さんはね、偶然ふらりとここにやってきた王族が起こした戦争の、間違った判断のせいで死んだのよ――そんなこと、言えるわけがなかったのだ。
はあっ、と母親が溜息を吐く。
ちろちろと揺れる暖炉のやわらかい炎の明かりに照らされて、泣きそうに笑う母の顔は今まで見た中で一番老け込んで見えた。
「私が守ってやらなきゃって、ずっと思ってたのに……いつの間にこんなに大きくなっちゃったんだろう。もう、話し時なのかもしれないね。話すって言っても、ここまで知っちゃったならほとんど話すことはないけれど」
「母さん……」
やっぱりいいよ、思わずそう口に出しかけて、けれど母親の母親らしい大きな笑顔に口を噤む。
働き者の手、という印象の大きくて暖かい手が伸びてきて、ダージュの髪をくしゃりと撫でた。
子供がそんなこと心配しなくていいの、と囁くようにそう言ってから、母親は話し始める。
「石像……ね。懐かしい話。よく憶えてるわ。母さんも鍬を持って壊しに行ったもの。短い戦争だったのに、酷い一日だった。私にはダージュがいてくれたけれど、丁度貴方くらいの年齢から兵として送られていたから、中には家族をいっぺんに亡くした人もいたの」
母親の痛ましげな微笑から、わかるはずはない当時の状況を垣間見たような気がした。
怒号、叫喚、悲痛な泣き声、苦しげな嗚咽、それらが入り混じり互いを増幅させ、膨れ上がった感情があの決して大きくはない広場に全て集まる。
その広場には井戸よりも存在感のある立派で古くはない石像があって、哀しみの声はそこに向けられている。
夫を返して、弟を返せ、息子を返してよ、友を返してくれ、人殺し、人殺し――口々に叫びながら、本人には届かない叫びを感情のままに、各々が手に持った武器と共に地面に引き倒された石像にぶつけていく。
石像は固く、畑を耕す農具では簡単には歯が立たないが、手をぼろぼろにしながらも誰もやめることはしない。
人々の頬をとめどなく流れる涙は、まるで帰らなかった兵士たちの流した血のようで。
けれどもそれを浴びながら少しずつ壊れていく石像の男は、口元に強気な笑みを浮かべ。声がいつまでたっても止まない。人殺し、ひとごろし、ヒトゴロシ!
「ダージュ」
「!」
呼びかけが唐突に思えて、びくりと肩を震わせる。
顔を上げれば、母親が悲しげにダージュを見つめていた。
「あんたが生まれる少し前よ。お父さんが死んだのは。あんたがいると知ったのは、あの人が亡くなったと知った後だった。追いかけようとしなかったのは――ダージュ、あんたのおかげよ」
「え……?」
お礼、とでも言うように、母親がダージュの皿にイモを一つ移動させた。
そのことではなく、さらりと言われた言葉にダージュはきょとんとする。
「なによ、その顔。わからないの? 他の子よりも妙に鋭かったりするかと思ったら、案外鈍感なのかしら」
「別に鋭くない。だから鈍感とか言う……」
ダージュが、言うなよ、と締めくくることはなかった。唐突に思い出したことがある。
『不器用で優しい。自分より相手のことを優先。自分のことに胸を張るほどの自信はなくて――自分に対する気持ちに鈍感』
ソフィの言葉が綿雲のようにふんわりと浮かんできて、否定することができなくなったのだ。
「簡単でしょ。私が死んだら、誰があんたを守るのよ? あんたはあの人からの贈り物、あんたを立派に育てるのは私に残されたあの人からの使命なの。――死ぬわけにいかないじゃない」
最後の呟くような一言は、ダージュに向けられた言葉ではなかった。使命と言いながらも、義務感ではなかった。
それがわかったから、これ以上そのことに触れないことに決めた。
それに、こうも真っ直ぐ言われると、照れるしかなくなるから。
「……残念だ。こんなに立派に育った息子の姿、一目だけでも、見せてやりたかったのにな」
「ふふ、言うようになったじゃない」
ぴしりとダージュの額を指先で弾いて、安心したように笑うと母親は夕食に戻った。
それで少しだけ安心して、残り一つ、気になったことを口にする。
「……その後、王族はどうなったんだ? まさか、そのまま堂々と居座っていられたわけはないだろ?」
「……」
すこん、と母親の持つスプーンがイモを半分に割る。片方を口に運んで答えた。
「――追放したわ。一人残らず。警備の兵を怪我させて縛り上げて、屋敷の周りに薪を置いて、火をつけると脅したら白旗振って出てきたわ。私たちも同じことを繰り返したかったわけじゃないから、三年だけ、猶予を与えたけれど」
「同じこと?」
「ただ放り出しただけじゃ、子供とかお年寄りは死んじゃうと思ったのよ。許せるかと言われたら許せないけど、家族を失った辛さは誰にあってもいけないものだから」
「……うん」
危なかったね、という商人の言葉を思い出した。そう、確かに危なかったのかもしれない。
無責任なことかもしれないけれど、もう少し戦争が終わるのが遅かったら、自分が生まれるのが早かったら、巻き込まれること以外にもその辛さを味わわなければいけなかったのだから。
「そういえば……マスターがお店を作ったのはその頃だったかしら。マスターは弟さんを、あのお店の一番の常連のおじさんは息子さんだけでなく、子どもを亡くしたショックで奥さんまで、あの戦争で失ったらしいから」
「……そう、なのか」
「うん。あのお店は最初は、そういった苦しさを紛らわせるための場所だったのかもしれないわね。でも、このことリリスちゃんたちには……」
「わかってる。言わないから」
努めたそっけない口調で遮って、シチューを口に運んだ。母親がほっとしたのを空気で感じて、内心安堵する。
少しだけ温くなってしまったシチューはそれでも美味しくて、その美味しさにふと気付いた。
思えば、今まで自分が帰宅して「おかえり」が無かったことはない。夕食を一人で食べたことなど一度もない。
屁理屈をこねた文句を言って怒らせた時も、リリスの大冒険に付き合わされていつもなら寝る時間に帰ってきた時も、いつも母親は待っていてくれ、「おかえり」の後に一緒に夕飯を食べた。
口に出したことは無いが、なんとなく思う。もしかしたらこれは、ダージュが顔を見たこともない父親への手向けなのかもしれない。
いつものようにいってらっしゃいと送り出し、けれどおかえりを言って一緒に夕飯を食べることがかなわなかった父親への、せめてもの。
「……待たせてごめん」
「えっ?」
母親が自分をぱっと顔を上げてみたのがわかったので、さっと顔を俯けて木のスプーンでごろりと大きなイモを口に突っ込む。
もぐもぐと会話を切り上げたつもりで咀嚼していたが、母親は食事の手を止めていた。
「何? 今なんて言ったの?」
「別に何も」
「もしかしてあんた、待たせてたこと悪いなって思ったの? 母さんが寂しい思いしてたんじゃないかって心配になったの?」
「聞こえてるじゃんかよ」
ぶすっと答えてニンジンを頬張る。
母親はなおも追究してくる。
「そうなの? 母さんを悲しませたくないって思ったりした?」
「そんなんじゃないって」
思わず少しだけ強い口調になる。
どうしてあんなことを言ったのか自分でもわかっていないのに、言われたことが妙に的を射ているような気がしてならなくて、気恥ずかしかったため。
あっと気付いてスプーンをくわえたまま顔を上げて、しかし、見たのは母の泣き崩れる姿などではなく目をぱちくりとさせた表情だった。
僅かに身を引く。
「な、なんだよ」
「珍しいわね、あんたがそこまで否定するなんて。そういえばダージュ、最近少し変わったもんね。ようやく反抗期の到来かしら?」
昔から手のかからない子だったけどまさか今になって教育し甲斐が出てくるなんてねえ、なんてことを言いながらシチューを口に運ぶ母親。
今度はこちらの手が止まる。
「変わった? 俺が?」
「変わったじゃない。そもそも、少し前なら商人にそこまで親切したりしないでしょ? マスターのとこでだって、絡んでくる酔っ払いなんて簡単に突っぱねられたわよね」
「う……」
母親がぐいぐいと身を乗り出してきて、逃げるようにがつがつとシチューを口に運んでいく。
うふふ、と母親は嬉しそうに笑い声を零した。
「やっぱりあれかしら。リリスちゃん最近ぐっと女の子らしくなったし、青色の春ってことかしら。若いって羨ましいわあ」
「うぐっ」
せっかくの美味しいシチューが味わえなかったことを残念に感じた。そして寒いからと水を用意しなかったことを後悔した。
吹き出した後にごほごほとむせて、そのせいで窒息死しそうになって、胸を押さえてぜいぜいと呼吸をする。涙目で怒鳴った。
「ち……違う! 断じて違う!」
「あら、あんたも照れるのねえ。我が息子ながら可愛いわあ」
「……」
こうなるともう何を言っても無駄だと悟って、反撃を諦めた。ばくばくとシチューの具を口に詰め込んでいく。
美味しくできてるかな、と聞かれて思わず素直に頷いてしまい、そういったアピールは無駄になってしまうのだけれど。
「よかった。いっぱい食べてね。……そうだ、今日のシチューちょっと気合入れて作りすぎちゃったから、リリスちゃんのとこに明日でも持っていってくれない? あの子、今はご飯の支度も任されてるって、酒場のマスターに聞いたのよ」
「わかった。あいつも母さんのシチュー大好物だもんな」
最後のひとすくいを口におさめてから、スプーンを入れた皿を持って立ち上がる。
けれどそこでふと思い出して、水を張ったバケツで皿をすすぎながら言った。
「あのさ、シチューの器、二つに分けてくれないか? 母さんのシチュー、食べさせてやりたい人たちがいるんだ」
「そうなの? お友達? ならもう一つ分用意するわよ。あ、『たち』ってことだから、少し多めにね。ただし、きちんと感想貰って来てちょうだいね」
二つ返事で母は気前よく頷いた。
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2011.10.10