物語の続きを
□第三章
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「起きなさいダージュ! 起きなさいったら!」
ぐわん、と声に殴られる。
比喩ではなくまさにそんなふうに感じて、ダージュは「うぐ」と小さな声で呻いた。
しかしそれが母親の声だと気付くのにさえ時間がかかるくらい、今の彼に判断力を求める方が間違いだけれど。
「もう、いつまで寝てるつもりなの! 卵もとってこないし鶏の世話もしないで……うちはそんなに金持ちじゃないよ!」
わかってる、と言葉にしたつもりはあったが、届いたかどうかは定かではなかった。
なにしろ母親も、こちらの話を聞く気があるのかないのか、息継ぎもしないで怒鳴り続けているのだし。
ただ、頭では辛うじてわかっていても、体がついてくる筈もない。
真夜中の外出は知られはしなかったものの、ベッドに潜り込んだのは「昨日」とは到底言えない時間だったのだから。
「――かあさん……」
「……何よ」
呻くように呼びかけると、さすがに心配になったのか母親は声のボリュームを落としてくれる。どうしたのかしらこの子は、頭でも痛いのかしら、風邪かしら、そんな不安を声から感じた。
ダージュの父親は息子に物心がつく時点で既にいなかった。母親が一人息子を女手ひとつで育ててきたのだ。
それゆえか横にもしっかりした体型と伴ってどうにも雄々しい部分の目立つ母親だが、しかし、身内贔屓だとわかっていても誰よりも母親らしい母親であるとダージュは認めている。
昔はリリスよりも風邪をひきやすかったダージュが寝込めば、一晩中看病してくれたものだ。
だからこそ今こうして心配してくれる。ほうっと心からの安心を得て、言った。
「たのむ……もうすこし、ねさせて……」
「もうっ! ダージュ!」
ダージュはうつ伏せのまま枕の下に頭を突っ込んで上から手で押さえ、耳に突き刺さる声を遮断こそできないが弱めた。
案外効果はあって、寝不足の招いた頭痛が少しだけ和らぐ。
心なしか、母親も諦めたのか攻撃の手も緩んできているような気がする。
しかめていた顔の筋肉が弛緩してきて、再び眠りの世界に落ちていきそうになった、その時。
「おばさん、あたしに任せてください」
この場で聞くのは少し珍しい声に、少しだけ意識を引っ張られる。
「本当? ありがとうね、助かるわ。頼んだわよ」
「はい! ――ほら、ダージュ、起きるのよ! 朝は待っちゃくれないんだから!」
「……ん? ――う、うわっ!」
ああこの声知ってるよな、でも、思い出したくないような気も――とそこまで考えて、ぐいっと体も物理的に引っ張られた。
所々をパッチワークで繕われたブランケットを引き剥がされて、ダージュはベッドから見事に転げ落ちる。
ガツン、といい音が後ろの方から聞こえて、朝のはずなのに星が見えた。
「……痛え……」
ずきずきと痛む頭を抱えて呻く。
すると自分を危うく墜落死させる勢いだった人物が、目の前に屈みこむ気配を感じた。
「痛え、じゃないわよダージュ! おばさんの手伝いもしないで何時まで寝ているつもりだったの!」
「もとはといえば、誰のせいだと思ってるんだよ……リリス……」
くっついていた瞼をバリバリと音がしそうな抵抗感を感じながら無理矢理開けば、目の前には幼馴染の少女の顔。
赤毛が太陽の如く眩しい。
「だから起こしに来てあげたんでしょう? 感謝なさいよ」
「よく言う……結果聞きに来ただけのくせに……」
ぼやきながら窓の外を見ると、時間はまだ昼よりも朝と呼ぶに相応しいくらい。
普段の半分以下の睡眠時間で、この起床時間は早すぎる。
けれどリリスには、そんなことよりもずっと気になることがあるようで。
「ほら早く、立って、歩いて、ついて来るの。行くわよ」
「ど、どこへ?」
「こんなところで話したら、おばさんに聞こえちゃうでしょ? 配慮してあげてるんだから、感謝なさいよ」
「よく言う……もとはといえばお前のせいなのに……」
起きてから同じような言葉だけで会話しているような気もするが、今のダージュにはそれが限界。
更に言うなら、自分より背は低いはずのリリスにずるずると引きずられて歩くのが、精一杯だった。
そして、ふらふらと今にも倒れそうによろめきながら連れて行かれたのは、町唯一の小さな酒場。
マスターはクマのような巨体と似合わず温厚な性格で、美味しいと評判の自家製ピクルスをわけてくれることもある。
開店前の店に入れてくれる上、今は外でなにやら作業中なので好都合この上ない。
おまけに、マスターが子供だけの秘密話を認めてくれる上に美味しいリンゴジュースを飲ませてくれることもあるということで、地上を離れた子供たちの天国、楽園もとい溜まり場であるのだ。
欠伸を噛み殺し損ねながら席の一つにダージュが崩れるように座って、リリスはカウンターの席に逆向きに着くなり身を乗り出した。
ダージュのまだ半分しか開かない虚ろな目に気付いているのか無視しているのか。
「それで、ダージュ、どうだったの? 吸血鬼、いたんでしょ? どうだった? 怖かった? 血のワイン飲んでた? 女の人だった? 銀の羽は?」
「……」
矢継ぎ早の質問にすぐに返事をしなかったのは、眠かったからなどではない。
どう言えばいいかわからなかったからでもない。
「……いや、いなかったぞ。吸血鬼なんて」
言うべきか否か、その時点で迷っていたから。――気が付けば、そう答えていた。
「え? いなかったの? あの執事っぽいおじさんだけ?」
「ああ……うん。食べ物は買い溜めだってよ。一人暮らし。他には、誰もいなかった」
「……なーんだ、つまんないの」
リリスは姿勢を戻してカウンターに寄りかかると、足をぶらぶらと前後させた。
信じてくれたことに、何故かほっとする。
けれどもリリスの性格が性格で、まだ心からは安心できなかった。
「あのさ、吸血鬼って言ったって、実際に被害が出たとかの話じゃないし……もうあの屋敷忍び込んだりするのさ、やめておこうぜ」
「え?」
リリスはダージュを、まるで血を吸えない吸血鬼を見るような目で見た。
「も、もしかしてダージュ……よっぽど怖い思いしてきたの?」
「……ウン、ソウダヨ」
認めるのは悔しいが、認めないと今後が難しい。
かちこちの片言で返事をしたら、リリスはぷっと吹き出して盛大に笑った。
「やだ可笑しい、ダージュ何よその返事! あんた、昔から嘘吐くの下手よねえ」
「ぐ……」
「安心なさい。あたしだって、調査してわかった上でほじくるような意地悪しないわよ。あたしの好奇心は、人様に迷惑をかけないの」
胸に手を当て、ふふんと笑う。俺には迷惑かかってるぞ、などと言えば面倒なことになりそうなので、それなりに学習能力のあるダージュは黙っていた。
するとリリスは、「あーあ」と言って天井を仰ぐ。
「でも、ほんのちょっと残念だな。本当に吸血鬼がいたら、パパそういうの好きだから話してあげようと思ったのに」
ちくりと、嘘を吐いているということに罪悪を感じる。
けれどごくりと故意に唾を呑み込むことで、言葉を抑えた。
何のために隠すのか、自分自身もわかっていなかったけれど。
「そういえば……お前の父さん、なかなか治らないんだってな。大丈夫なのか?」
眠気はもう完全に覚めて、胸に滑り込んだ心配が涼しい。
リリスの父親がしばらく前から体調を崩して寝込んでいるのは知っている。
「多分ね。ただ、咳が酷いのよ。熱も下がらないらしいの。たまに血まで吐くらしいから、ママの方が参っちゃうんじゃないかと思うわ。詳しいことはうつったら困るからって看病させてもらってないからわからないけど……まあ、大丈夫でしょ」
ダージュもリリスと同じ理由でお見舞いには行けていない。けれどさらりとしたリリスの返事を聞いたら、なんとなく、大丈夫な気がしたのはどうしてだろう。
すると。