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□お決まりの台詞?
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ようやく残暑の気配も薄れ、朝晩は涼しい気温となり始めた9月のある週末。日没から数時間が過ぎた住宅街の路中に忙しないヒール音が響いていた。
ダークグレーのスーツに身を包み、背中の半ばまで伸びたストレートの黒髪をなびかせて走り行くその姿は、傍から見れば充分に全力疾走と呼べるほどのスピードであったが、本人に言わせると「まだ早足だっ」と言い切る速度だった。
駅から自宅まで徒歩15分という距離をこれほどまで急いでいる訳は、ただ単にいつもの帰宅時間より遅れているからに他ならない。

「定時で終わるはずだったのに……っ!」

終業30分前に突如知らされた、週明け朝一の会議に必要な資料作りのお陰で予定にない1時間の残業をする羽目になった。
遅くなることは連絡しておいたし、もとより何時に帰るなどと約束した訳ではない。それでも美咲が急ぐのは、性格的に人を待たせるということが厭だということと、今日が自分の誕生日だということにある。
初めて2人で祝った、あの高校2年の誕生日からずっと、可能な限りお互いの誕生日は共に過ごすことにしてきた。ことに美咲の誕生日には碓氷が腕を振るうのは恒例となっており、今日も凝った料理が用意されているのは明白だった。
特に今年は結婚してから初めての記念日ということもあり、口や態度にこそ表わさなかったが美咲とて愉しみにしていたのだ。
そこへもっての急な残業。
「うっかり忘れていた」などと呑気にのたまった上司に脳内で悪態をつきながらも、この期に及んで“走る”という行動に移らないのは、未だに残る相手への羞恥心だろうか。
最後の角を曲がり、視界に自宅が入ったことを認めてから、美咲は一旦足を止めた。
すーはーと数回深呼吸をして呼吸を整える。そして大股で、決して慌てていたなどとは思われないように、“歩く”ことを意識して家へと向かう。インターフォンは鳴らさずに、鍵を開けてゆっくりとドアを開けた。

「ただいまーっ」

声を掛けつつしゃがみ込み、脱いだ靴を揃えて振り向いたときには、キッチンに続くドアから出てきた碓氷が美咲の背後に辿り着いていた。

「お帰り。お疲れさま〜」

「悪かったな、遅くなって」

「仕事じゃ仕方ないし1時間位じゃ遅くないよ。それに却って良かったかも。丁度料理ができたところなんだよね」

にっこりと笑いながら美咲を迎え入れた碓氷は、料理を並べたテーブルのあるダイニングルームへとエスコートすべく美咲の背中に片手を添えた。反対の手にはいつの間にか美咲の鞄が持たれている。
促されて歩き出した美咲が数歩も行かないうちに碓氷がポツリと呟いた。

「……なんか俺、新妻みたい……?」

それは本当にポロリと零れでた呟きで、当然美咲には聞き取ることもできず、「何か言ったか?」と聞き返した美咲が見た碓氷の表情は、悪戯を思い付いたような、それはそれは愉しそうな笑顔だった。
コレハヤバイ!
こういう表情をした碓氷を相手にした時は碌なことがないと、美咲は今までの経験から瞬時に悟った。しかし、今居る場所は狭いとは言わないが広いとも言えない自宅の廊下。
気付けば廊下の壁に背中を押し付けられ、身体の両側には碓氷の両腕が付かれていて逃れることはできなかった。

「な……なに……?」

恐る恐るといった態で美咲が再び聞き返す。それに対してにーっこりと、先程とは違う胡散臭い笑みを浮かべた碓氷が美咲の耳許で囁いた。

「ねぇミサちゃん。ご飯にする? お風呂にする? それとも……」

碓氷はわざとらしく一呼吸おいて、相手にとって充分爆弾足りえる最後の台詞を続ける。

「俺にする?」

案の定固まった美咲にまたもやにっこりと笑いかけ、さらにもう一言。

「ミサちゃんが答えないなら俺が決めるよ? 俺が“好きなモノは最初”派なのは……識ってるよね?」

最後にハートマークが付きそうなほど愉しげな声色でそう宣言すると、未だ動けないでいる美咲の膝裏と背中にに手を差し入れて軽やかに抱き上げて寝室に向かったのだった。


end.(2011.09.30)

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