Thanks

□リップクリーム
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碓氷の手のなかに納まっている、丸くて平べったい銀色の容器の蓋が、わずかな音を立てて開けられる。
途端に漂った、爽やかさのなかにも柔らかい甘さのある人工的な柑橘類の香りが、2人がいる空間をほんの少しだけ甘ったるい雰囲気に変えた。

「こっち向いて」

碓氷が言いながら人差し指で撫でるようにリップクリームを掬い取る。
容器を持ったままの手で、美咲の顎を捕らえて自分と向き合うように固定すると、ゆっくりと美咲の下唇にリップクリームを塗っていく。

碓氷の指から離れたクリームは速やかに、少し荒れていた美咲の唇を潤していった。
リップクリームが溶けるその速度は、元々がそういうものであるのに、まるで碓氷に触れられたことによって生じた熱によって溶かされたかのような錯覚を覚えるほど早い。

わずかに頬を赤らめ、それでも気丈に碓氷を睨みつけるような眼差しで見つめていた美咲の唇が、リップクリームを馴染ませるために習い性のように動き、離れ遅れた碓氷の指先を挟んだ。
それはとてもわずかな触れ合いだったにも関わらず、一瞬にしてその身のうちに色付いた焔が燃え上がる。

熱っぽく見つめ合ったのは刹那。

噛み付くように唇を塞いだ勢いとは裏腹に、啄ばむように口付けを繰り返す。
決して深くならない口付けは、塗られたリップクリームが浸透するまで続けられ、美咲だけでなく碓氷の唇も艶やかさを増した。

その艶やかさに誘われるように再開された口付けが、今度は深まっていったのは、今の2人にとっては自然なこと。

身のうちに灯った焔は渇きを生む。
渇望する心を満たす術をすでに知っている2人は、潤い満たされ尽きるまで離れることはなかった。


end.(2010.06.23)

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