Thanks

□包温
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放課後の見回りを終えて生徒会室に戻ると、既に役員は幸村しか残ってはいなかった。

「あっ会長、お疲れさまです」

「あぁ…。他の奴らはもう帰ったのか?」

「はい、今日の分は終わったそうなので。僕もこれで終わりです」

扉を閉めつつ室内を見渡して問うた質問に、幸村は答えながら纏め終えた報告書を渡してきた。
それを受け取り、机の上に置かれていた他の役員からの書類と一緒にする。

「そうか。なら幸村ももう帰っていいぞ」

「それじゃあ…お先に失礼します」

今日はバイトがないから、これらをチェックし終えることができるだろう――ざっと書類を眺めて目算を立てる。
挨拶をして出て行った幸村を見送ってから、くるりと振り向いて会長席の横に陣取っていた一般生徒を一瞥した。
…いくら他の生徒から一目置かれているとはいえ、役員でもないのに何故ここまで馴染んでいるのか疑問に思い、少なからず頭痛を覚える。目の前の相手にも、享受している役員達にも。

「――…お前も帰ったらどうだ?」

はぁ…と大袈裟に溜め息をつきつつ促してみると、言われた相手は読んでいた文庫本から視線を上げてチラリと横目で見返してきた。

「ミサちゃんが帰るなら一緒に帰るよ♪」

「1人で帰れっ!」

ニヤリと口角を上げて答えた相手にお決まりのように怒鳴り返し自分の椅子に座る。
どう言っても、何度言っても、この宇宙人は2人きりになってからでは決して部屋を出ては行かない。
こいつを追い出したければ他の役員達が居る時に叩き出すしかないことを、私はもう厭というほど理解していた。
相手にするだけ時間が勿体ない。
碓氷はここに居ないものとして、私は書類に目を通し始めた。
暫らくの間は右頬の辺りに視線を感じていたが、それもやがてはなくなり、スピードの違う2種類の紙を捲る音が静かな室内に響くだけとなった。

順番に報告書を確認し続けてようやく最後の1枚になったときには、手元を照らしていた光は窓から差し込んでいた橙色のものから室内灯の黄白色に取って代わられていた。

今の時期の日暮れは早い。
まだ夕方の時間ではあるが、窓の外に広がる夕闇は既に明るさをなくして墨色を濃くしていた。
陽が姿を消した途端に気温も下降を始め、それは室内の物質に蓄められていた熱も同様に冷ましていく。
ずっと机の上に伏せていた左手は、冷たくなっていく木の板に温度を盗られてかじかみ始めていた。
書類を持ち上げていたためまだ温もりを保っていた右手で左手を包み込んで擦る。
左手に触れた途端、その冷たさに思わずふるり、と身体が震えた。
室温も大分下がっていたのだろう。
腕も擦って寒さをやり過ごそうとしてみる。

(あっ、ささくれ…)

右手の中指に小さなささくれを見付け、馴れない左手で捲れてしまった部分を千切ろうとした。…が。

「待った」

やんわりと碓氷の手がそれを止めた。
碓氷は私の右手を下から掬うように持ち上げると、いつの間に取り出していたのか銀色のチューブを持っていて、黒色のキャップを器用にも片手で開けた。
鼻を突く、微かな薬品臭とそれを覆い隠すような少し強い柑橘の香り。

「…ちょっと荒れてるね。特殊な接客業のバイトしているんだから、こういうところにも気を配らないと…」

折角綺麗な手をしてるのに勿体ないよ? なんて歯の浮くようなことを言いながら、碓氷はハンドクリームを塗り始めた。
爪の周りは指の腹を使って円を描くように。指の付け根から指先までは滑らせるように往復させて。親指から小指まで1本ずつ順序よく進めて全ての指が終われば、次は手を包むようにして手の甲と掌にハンドクリームを馴染ませていく。

丁寧にゆっくりと優しくマッサージするみたいに動く碓氷の手と、その手にされるがままにされている自分の手から何故か視線が外せなかった。

右手が済んで同じように左手も終わっても私の視線は上がることはなく、やがて視界に再び掬い取られる右手が映る。
言葉を発することもできないままじっと見ていると、またもやいつの間にか碓氷の手には爪切りが握られていて、仕上げとばかりにさっき見付けたささくれを切っていた。

「手で千切ると失敗して深くなることもあるからね」

「…なんで爪切りなんて持ってるんだ?」

「んーー。…ご主人様だから?」

「阿呆か」

からかうような笑みを浮かべながらのふざけた返事に悪態で返し、両手を見つめる。
ハンドクリームに付与されていた柑橘の香りが感じられなくなるまで、時間をかけてクリームを塗られた手は、滑らかさと温かさを取り戻していた。

「…碓氷…。ありがとう…な…」

ようやく視線を上げて目の前の碓氷を真っ直ぐ見据えて礼を言う。

「どういたしまして。――…でも、」

ふっ…と笑いながら応えた碓氷は言葉を途切れさせると、私の両手をその大きな掌で包み込んだ。

「まだ…終わってないよ」

包んだ手を引き寄せつつ上体を屈め、耳許で囁かれた際の吐息が耳朶を擽る。
瞬間、ドキンッと大きく鳴った心臓が耳の奥で谺(こだま)して、続いた碓氷の声が途切れがちにしか聞こえなかった。

「? っ…、な、なに…?」

聞き返すために開けた口は、まだ寒いでしょ? 温めてあげる…と繰り返して囁いた碓氷の唇で塞がれた。

包まれていた手はいつしか指を絡めて繋ぎ合っていて。
碓氷から与えられ、また、自分の中から生じてくる熱が全身に廻り終わっても、温もりを分け合う口付けが終わることはなかった。


end.(2011.01.21)

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