Novel

□傘の下、その温もりに
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雨の匂いがする…

そう呟いた美咲は、視線を天へと向けたあと首を動かして背後を仰ぎ見た。
校舎から屋上へと繋がる階段上の、学校内で最も高いその場所に居るはずの人物に声をかける。

「―…居るんだろう?」

美咲の声に応えて身体を起こした碓氷が下を見たときには、美咲はもう首を前に戻していて、また空を見ていた。

碓氷の居る場所からは美咲がどんな表情をしているかは見えない。
しかし、視線とともに僅かに頭が動いていることで、空の低いところを流れていく雲を見ているのだと知る。

「鍵かけるから、さっさと降りてこい」

碓氷に背中を向けたまま、美咲がまた声をかける。
姿を見てはいないのに居ると決め付けている台詞に、碓氷は口許が緩んでくるのが判ったが、ふと自分じゃなくて他の誰かが居ると思っているのかもしれない…と思い至る。

美咲は“碓氷”と呼びかけてはいないのだ。

そのことに少しの淋しさを感じ、返事をせずにいた碓氷の耳に再び美咲の声が届いた。

「聞いているのか、碓氷!」

たった一言。
それだけでも嬉しくなるのには充分で。
碓氷は早く傍に行きたくて返事もそこそこに降り始めた。

離れた向こう側から流れてくる雲は段々と厚さと色を増している。
流れる速度も早く空気も湿気を帯びてきたようだった。
碓氷は、朝の予報では夕方から夜にかけて雨だったな…とぼんやり思い出した。

「――ねぇ、雨の匂いって…そんなのする? どんなの?」

美咲の隣に並び、同じように空を見上げて問うと、美咲は少し首を傾げた。

「…ちょっと埃っぽいというか…巧く説明できないんだが、空気がいつもとは違う匂いがするんだよ。と言ってもいつも必ずするわけじゃないが…」

「へ〜…気付いたことなかったなぁ…」

相槌を打った碓氷の視線は美咲の横顔に注がれていた。
しかし美咲は気付かないのか、変わらず上を見上げていて「この分だとすぐにでも降り出しそうだな…」と溜め息混じりに呟くと、碓氷とは反対の方向を向いて、校舎へと続く扉へ向かってしまう。

美咲の後をついていく碓氷は、さっきから一向に目が合わないことを不満に思っていた。
意識的に見ないのか、それともただの偶然か…図りかねて結局、なにも行動を起こせないでいる。
そんな碓氷の心情などお構いなしに、美咲は鍵をかけるとさっさと階段を降りていく。

溜め息とともにその後ろ姿を見送り、鞄を取りに教室に向かった碓氷と、残りの見回りを終えた美咲が昇降口で鉢合わせたときには、美咲の言葉どおりすでに強く雨が降りだしていた。

ぱんっと乾いた音を立てて碓氷が傘を開く。
歩き出そうとすると、隣にいる美咲が鞄のなかを探っている姿が見えた。

「傘ないの?」

「いや…今朝入れてきたはずなんだが…」

おかしいな…と言いながらなおも探すが、やはりないようで美咲は大きな溜め息をつく。

「仕方ない…走って帰るか。今日はバイトもないし…」

雨空を見て諦めたように言う美咲の言葉に、碓氷は慌てて美咲の腕を掴んで引き寄せた。

「なに言ってんの。送るから入って」

「なっ…ちょっ、いいって!」

「よくない。なんで濡れて帰ろうとするの? 目の前に俺がいるのに」

少し語調を強くして言った碓氷に気圧されたのか、抵抗していた美咲が大人しくなる。

「いや……悪いし…」

「なにが? 言っとくけど、鮎沢が濡れて風邪引いたりするほうが困るんだけど」

「なんでお前が困るんだよ」

「風邪引いて休んだら逢えなくなるでしょ? 毎日逢えないと厭だもん」

「っあほか…っ」

碓氷の言葉に赤くなった美咲は、それでも碓氷の傘のなかに入ろうとはしない。
業を煮やした碓氷が、掴んだままだった腕をさらに引き寄せた。

「痛っ」

「! ごめん、強かった?」

小さく悲鳴を上げた美咲を覗き込むように碓氷が顔を寄せる。

「違っ、なんか目に入った」

見ると美咲は左目を瞑り涙を滲ませていた。
無意識の行動か、左手で目を擦ろうとするのを慌てて止める。

「擦っちゃダメだよ。見せて」

碓氷は美咲に傘を手渡すと、両手で顔を包み込み目の状態をみる。

「睫毛だね。ちょっとじっとしてて」

言うなり碓氷は、おもむろに美咲の左目をぺろっと舐めた。

「?!」

「とれたよ」

自分が今なにをされたのか理解できないでいる美咲をよそに、碓氷は舌に付いた睫毛を指で取り払う。

「なっ、舐める奴があるかーっ!!」

「だって指とかだと下手したら目を傷付けるかもでしょ?」

怒鳴る美咲に、しれっと答えた碓氷は傘を取り返し、美咲の右手を捉えて「さ、帰ろう」と促した。
だが硬直してしまった美咲はなかなか動こうとしない。それが碓氷には拒否されているように感じられ、面白くない。

「…ミサちゃんー? 動かないならここでちゅーしちゃうよ?」

「なっ?!」

捉えようによってはますます動けなくなるような発言だが、美咲には効果がある。

案の定、ばっと勢い良く顔を上げて文句を言おうとした美咲は碓氷の顔を見た途端に、赤くなっていた顔を隠すようにまた俯いてしまった。が、きゅっと唇を噛むと繋がれた手を振り払う。

「…涙で滲んで…まだ…よく見えないから…引っ張ってけ…」

小さな声で言いながら、碓氷の左腕に自分の右腕を絡める。
驚いた碓氷は一瞬目を見開いたが、すぐにふっと笑うと傘を左手に持ち替え、美咲が濡れないように寄り添って歩き出した。

美咲は俯いたままで相も変わらず目が合うことはなかったが、しっかりと組まれた腕が、普段他人に頼らない美咲に頼られていると思わせられ、碓氷を嬉しくさせる。

狭い傘の下、手を繋ぐよりも強く感じられる相手の体温に安堵し、自分の体温も上昇していくのを自覚したのは…2人ともだったことはお互いに気付いてはいなかった。


end.(2010.04.08)

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