Novel

□陰る、月
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連絡もなくいきなり訪れた私を見て、碓氷は最初は驚いていたがすぐに微笑むと部屋に通してくれた。
ソファに並んで座り、いつものように碓氷が淹れてくれたお茶を一口飲む。

「何も…訊かないのか?」

「何を?」

「いきなり来た理由…とか…
 急に…迷惑…だろ?」

碓氷の顔が見られなくて、じっと手のなかにあるカップに視線を留めさせたまま呟くように答えた。

「言いたくなったらでいいし、そもそも理由なんてなくても来て欲しいと思ってるんだから、嬉しいくらいなんだけど?」

そう言った碓氷は、肩を引き寄せるようにして抱き締めてきた。
力を入れない、ただ身体に腕を回すだけの抱擁に、気遣われているのだと気付く。

当たり前か。
きっと今の私は情けない表情をしているに違いないのだから、聡いコイツが何かあると気付かない訳がない。
それでも何も訊かずにいてくれることに、安堵と、それ以上の切なさが沸き上がった。

ごめんな…

心のなかで呟き、持ったままだったカップを静かにテーブルに置く。空いた手を碓氷の背中に回し、縋るように抱き付いた。
少し遅れて碓氷の腕にも力が籠もる。それを合図に私から唇を重ねた。
最初は触れるだけ。
重ねるごとに長さと深さを増していき、絡まり始めた舌が口内で水音を響かせる。

「…どうしたの?
 もしかして…誘ってる…?」

僅かに離れた隙に碓氷が問い掛ける。
私からキスするなんて滅多にないからと、からかうような問い掛けにまだ気遣われていると感じた。

「…――…だったら…悪いかよ…」

何度か繰り返された行為。
いまさら…と言われても恥ずかしさは薄れることなく常にあり続け、今も顔を朱に染め上げていく。
碓氷は頬に手を添えるとニヤリと笑い「大歓迎v」と囁いて私をソファに組み敷いた。


**********


気付くと狭いソファの上、半ば碓氷の身体に乗り掛かるようにして眠っていた。
私を腕のなかに捕らえた碓氷は規則正しい呼吸を繰り返している。
起こさないようにそっと腕を外すと、脱ぎ散らかされた衣服を拾い着ながらバスルームに向かう。
途中テーブルの上にあった携帯で時間を確認すると、日付が変わってからさほど経ってはいなかった。

コックを捻り少し熱めの湯を頭から浴びる。
俯き加減の視線の先に映ったのは、碓氷に付けられた幾つもの紅い痕。
指先で触れるとそこだけが熱を帯びているかのような錯覚を受け、視界が滲んでくる。
シャワーに紛れて声を押し殺して、泣いた。

いつもいつも助けられて。
返し切れない借りばかりが増えて。

悔しかった。歯痒かった。

一方的に守られるんじゃなくて、私もアイツを守りたいと…

…助けたいと思っていた。

対等な立場で隣に立っていたかった。
でも、傍に居ること自体が碓氷の足枷になるというのなら…
私は…傍に居るべきじゃ…ない。

もし…
あの時碓氷にバイトがバレなければ…
碓氷が私に興味をもたなければ…
私が碓氷を嫌いなままでいたのなら…

いまさら言っても詮ないことだと判っているのに仮説の可能性が頭から離れない。
善いかどうかは別としても、碓氷自身受け入れていた未来を変えることはなかったかもしれないと思うと遣り切れない。
だが現状はすでに変わっていて、碓氷にとっても喜ばしくない方向に動いている。
そうなってしまった一因は私だ。
それが判っていて、なおも傍に居続けることはできない。できる訳がない。
これ以上アイツの立場を悪くさせないためにも、私は離れるべき…

再びコックを捻ってシャワーを止め、思考を断ち切るように髪を掻きあげた。

バスルームから出てソファに近づくと、碓氷はまだ眠っていた。
しかし寝たふりをしていることが多かったことを思い出し、もしかして起きているかもしれないと…暫らく横に佇んだまま見下ろして様子を窺ってみる。
変わらず繰り返される呼吸。
試しにそっと頭を撫でてみるが変化はない。
どうやら今日はちゃんと眠っているようだ。

碓氷の前髪を指で梳くようにしながら、昼間のことを思い出す。
イギリスから来たという人物との会話。
その内容は―…碓氷をイギリスに引き取り、祖父の監視下に置くというものだった。
碓氷に拒否権はなく、今すぐにでも連れて行くというその人の言葉に、明日まで待ってくれと頼んだ。
せめて別れを告げる時間が欲しい、と。
いきなり連れられては納得できないだろうから、と。
そうしてできた僅かな猶予。
…タイムリミットは夜明け。

月が姿を消すころに、入れ替わるように碓氷に迎えが来る。そうしたらきっと、2度と逢うことはないだろう。

また泣きたくなってきたのを堪えていると、雲に隠れていた月が現われ、室内に淡い光を届けた。
月明かりに照らされた碓氷の寝顔は穏やかで…知らず私の気持ちも穏やかになっていた。
悲しさは残ったままだったけれど。

そしてまたすぐに月が雲に隠れ、薄暗闇に包まれる。
そのときにはもう、私の心は決まっていた。

伏せられた瞼に口付けを落とし、ごめんな…と呟いて部屋を出る。
決別の決心が鈍らないように、振り返ることなく私はマンションを後にした。

ここから先、私たちが歩く道は別れ、再び交わることはない――…


end.(2010.03.06)

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